ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

夏休み直前の学舎点描

2017-07-21 22:10:07 | 「育」業
新潟県内の学校は、今日が終業式だったという。
私の4月からかかわっているところは、残念ながらまだ夏休みにはならない。
終業式の予定を来週の月曜日にしているのが2校、来週の水曜日が1校。
以前は同じ自治体内なら同じ日から夏休みになっていたのだが、今は、各校の判断にゆだねられている。
と言いながらも、暑いから夏休みを早めましょう、ということが自由にできる訳ではない。
4月にあらかじめ届け出ておいた年間計画にしたがって、休みが始まるのだ。

それにしても、暑い。
今日も36℃と言っていたが、3階建ての建物だと、階が上がるごとに気温が1℃くらいずつ上がるように感じられる。
扇風機の入っている教室もあるが、1教室に家庭用扇風機が1台あるくらいでは気温が下がるはずもない。
これでは、学校で有効な学習などできるはずがない。
夏休みは、やっぱり必要だ。
汗をかきながら、がんばっている子どもたちの姿は健気だ。

今日が終業式ではなくとも、短縮授業で給食なし、午前上がり。
子どもなら、午後からたくさん遊べるぞ、というところ。
ところが、気温が高すぎて、外で遊ぶような無謀な子はいない。
学校のグラウンドは、誰も子どもがいないで、ただただ乾いているだけの今日であった。

学校で働く人たちは、誰もがあわただしく動いていて、学期末という雰囲気を漂わせている。
数年前とは違って、今はだいたいどの学校でも職員室にはエアコンがあるようになった。
だが、多くのところでは、教室で子どもたちが学習している時、職員室だけエアコンを作動させているようなことはしない。
子どもたちが帰った後スイッチを入れるというところが多いのが、教職員の涙ぐましいところだ。
やっと冷房を入れたというのに、教室でないとできない学級の仕事や会議・打ち合わせなどのために、職員室を出てバタバタと動いている人たちがたくさんいる。
新人の方も、3か月余りいろいろと大変な思いをしながら、子どもたちのために働く日常を覚えてきた。
通知表で、子ども一人一人が学校で見せる輝きを伝えようと、ここ数日間は悩み抜いたようであった。

子どもも大人も、皆、がんばっているなあと思える、猛暑の中の学舎である。
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合歓の木の花

2017-07-20 22:33:51 | 草木花
7月のこの時期に咲く、樹木の花で、いつもきれいだなあ、不思議な花だなあ、と思うものがある。
それが、「合歓の木」の花。
最初漢字で見た時、これを「ネムノキ」と読むとは思わなかったなあ。
不思議な咲き方をする花だと思う。

細やかなピンクの細い花がきれいだ、という印象があった。
まるで花火のようだ。

ところで、あの細い毛のようなピンクの先には、なんと黄色い花粉が付いていた。

ということは、花だと思っていたのは、おしべだったのだ。
ネムノキは、夜になるとゆっくりと葉を閉じることから、眠る木だからネムノキになったと言われているのだそうだ。
そして、不思議な「合歓」という漢字。
夜になると、葉を合わせるように閉じるからで、中国ではこの木が夫婦円満の象徴とされているのだそうだ。
なるほどねえ。
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懐かしきエノキの実

2017-07-19 22:09:59 | 草木花
今日、懐かしい木の実を見かけた。
それが、この写真にある木の実だ。

この木は、少年時代住んでいた、わが家の庭の一隅にもあった木である。
わが家では、この木の太い枝に、父がロープを結んでブランコを作ってくれた。
幼少の頃、よく弟とブランコ乗りをして遊んだものだ。

ところで、この木の名前は、漢字で書くとこんな字。
「榎」。
そう、この木は、エノキなのである。

このエノキの実が、実はさらに懐かしいのである。
私が育ったところには、エノキも多くあった。
今ごろの時期には、3,4mmの固く小さな実がなっていた。
その実を使って遊ぶのだ。
「えのみでっぽう」の弾として使うのである。
「えのみでっぽう」とは、「榎の実鉄砲」と、おそらく書く。
同級生たちは、「イノミデッポウ」と、訛って言っていたが。
細い種類の竹を使って、紙玉鉄砲のようなものを作って、その実を弾にして遊ぶのだ。
パンッといい音を立てて、実の弾丸が飛び出していく。
その音が実に気持ちのいいものであった。

私が子どものころ住んでいたところには、細い種類の竹がたくさん生えていた。
あの頃の男の子ならだれでも持っていた、鋸歯付きの肥後守(ナイフ)を使って、竹を切って、えのみでっぽうをよく作ったものだった。
竹のひと節を切り、筒の部分と柄の部分を作る。
柄の部分はやや短めに、筒の部分は長めに切る。
柄の部分にさらに細い竹を差し込み、軸を作る。
軸は、筒より1cm弱短く作る。
そうすると、圧縮された空気で弾が発射された後、次の弾が筒の先端に残ることになるのだ。
うまく作れた時はうれしかった。
パンパン音を立てて遊んでいたのが懐かしい。

今は、かつて自分が住んでいた集落にも、エノキの木はほとんど見かけなくなった。
当たり前のように、今は、えのみでっぽうを作って遊ぶ子なんか、いない。
50年前の遊びを思い出させてくれたエノキの実であった。

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県内各地の洪水被害を憂う

2017-07-18 22:24:38 | 自然・季節
線状降水帯。
こんな言葉が、有名になってしまった。
この下では、短時間の集中豪雨が起こる。
昨夜は、当地では9時半ごろから雷雨が激しくなった。
夜中、明け方にも、強い雨が降って目が覚めたりした。
だが、被害にまでは至らずに済んだ。

ところが、新潟県を見てみると、そう簡単ではなかった。
線状降水帯ができたために、夜中には、長岡市はじめ県内各所で1時間に100ミリを超える降水量があったという。
朝起きてテレビを見ると、大雨のニュースをずっと流していた。
それにしても、ニュースで流れてくる地名が、かつて勤務した土地や勤務した所へ行くための土地であった。
長岡市渡部…信濃川大河津分水の河口近い場所だ。
長岡市栃堀…旧栃尾市の山から平地に下りてきたあたりの地名だ。
かつて30年以上前、それぞれの近くに勤務先があり、近くに川の流れがあった。
阿賀町の常浪川…10年前に勤めていたところのすぐそばにその川はあった。水量が多くなり、あふれているという。
五泉市の中野橋、南田中、笹野町…長岡に勤務していた時、土曜日に家に帰る時によく通ったところだ。近くに能代川という川が流れていたはずだ。
三条市下田地区…数年前に新潟福島豪雨で被害をこうむったところが、再び浸水しているという。やっと立ち直ったと思っていたのに…。
まだそれ以外にも、自分が立ち寄ったことがある場所や知っている場所が、洪水被害にあっていた。
幸いにも、人命に大きな影響は出ていないようだ。
だが、せっかく育ててきた稲の苗が泥をかぶってしまったところもある。
農作物への影響も、住まいへの影響も大きいことだろう。

自分に身近だったところの被害は、自分の心の動揺を大きくする。
どうか被害が拡大しないように。
心から祈るしだいだ。
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オクラ…ちゃん

2017-07-17 20:58:23 | 草木花
わが家で育てている野菜の1つがオクラである。
昨年以前にも、オクラの花については書いたことがあった。
黄色い花が優美に咲くのである。

だから、私は野菜の花の中では、オクラの花が大好きである。
この前、オクラって、英語で何というのかな?と疑問を持って調べてみた。
すると、なんと゛okura″。4
オクラは英語でもオクラだったのである。
知らなかった!

さて、毎朝BS日テレでは、アンパンマンが放映されている。
そこにたまに出てくるのが、オクラちゃんなのだ。

このオクラちゃん、野菜を一生懸命愛情をもって育てている。
「おいしく育ってね」と言いながら。

そして、野菜と別れる時は、
「トマトさん、キュウリさん、さようなら…。」
「私のこと忘れないでね…。 あなたたちとお別れするのはつらいけど、 おいしく食べてもらってみんなを喜ばせてあげてね…。」
と言って、泣くのである。

うちの娘が、「うちの母とこのオクラちゃん、よく似てるよね。」と言って、妻をからかう時がある。
顔の形と、右眼の下のほくろがそっくりなのだと言う。
そう言われて見てみると、「…なるほど!」なのであった。


以前は、オクラの花を見る時、野菜とは思えない花の美しさに感心しながら見ていた。
なので、最近は、オクラの花を見ながら娘の言葉を思い出し、思わずニヤリと笑ってしまう私である。

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中学校還暦同期会に出席して

2017-07-16 21:35:10 | 生き方

50名弱が参加した中学校の同期の同窓会。
7組合同の同窓会。
幹事をやってくれた人たちの学級3年2組は、11人もの参加者がいた。
私のいた3年5組は、最少の5名の出席であった。
考えてみると、卒業する時、5組では、同級会の幹事を決めたりはしなかった。
2組は、ちゃんと決めて同級会をやってきたのだそうだ。
その違いは大きいかな?
卒業後に同級会をやるという発想が5組にはなかったから、幹事を決めようということもないまま、45年が経過したという訳だ。

くじを引いて、7つのテーブルの1つに着くと、女性が4人、私を含めた男性が3人という席だった。
女性のうちの一人は、奇しくも今住んでいる町内の方。
うちの息子と同級生の母親だったから、気が楽であった。
ほかの3人は、よーく考えると同学年にいたとわかるけれども、今まで口をきいたことのない方々。
そこを補ってくれたのは、隣席のよく知っている男性。
昔と違って積極的に女性の皆さんに語りかけてくれ、場の雰囲気が沈まずに済んだ。

もう一人の男性は、中学時代は近寄りがたい存在だった男性。
バスケットボール部で活躍していたし、結構腕っぷしは強かったし、にぎやかな友人たちと一緒に行動していた人だったから。
洋楽が好きだった彼らしく、今は東京の方で音楽関係の仕事をしているらしい。
中学校時代の思い出として語ってくれたことに、寺内タケシとブルージーンズが中学校の隣の体育館でコンサートをした時のことがあった。
友だちと二人して、なんとかない金を貯めて、チケットを買ったのに、入場の手前で先生に見つかり、チケットを没収され、コンサートは何も見ることができず、非常に無念な思いをしたそうだ。

私の席まで来てくれたのは、高校の同級生の人が次々に来てくれた。
昨年の同級会後に作った、還暦記念の文集づくりの御礼を言いに来てくれたのだった。
労をねぎらう言葉をかけてくれたのは、うれしかった。

さて、自分からも席を動いて話しかけていった。
中3時に同級生だった女性は、1人しかいなかった。
話しかけてみると、「あ、50fox君!」と私のことを覚えていてくれたのはよかったけど、50fox君、イボ痔になったよね!!」というリアクションが返って来た。
…何でそんなこと、覚えているかなあ…。
苦笑してしまった。
中学時代、8km先の中学校へ自転車通学した私は、中1の初めころ、長い距離の自転車乗りのおかげで、尻にイボ痔ができてしまったのだ。
そんな、私が自分でも忘れてしまっていた恥ずかしい話を覚えているとは、さすがである。

男性たちでは、中2や中3で、よく一緒に卓球をして遊んだ人たちがいた。
卓球台を求めて、あちこちの会社の厚生施設に入り込み、卓球をしたものである。
そういう人たちがいたからこそ、私は卓球が好きになり、高校1年の途中から卓球部に入ったりできたのである。

中2の頃に、学級対抗のバレーボール大会で学年優勝した時の、エースだった男性とも久々に会って会話した。
あの当時、私はひ弱だったが、前陣のエース君につなごうと一生懸命中堅でがんばった。
そして、チームは優勝し、地区内の中学校6校で争う大会でも優勝し、地区1位の学級となり、誇らしい思い出ができたのだった。

会の終わる頃にも、自分の名を名乗りながら、私に話しかけてくれる人がいた。
でも、よく思い出せなくて悔しかった。
もう一人、「50foxくん、久しぶりだね。懐かしい。」と言って、声をかけて来た女性は、中2の頃転校してきた人だ。
わざわざ声をかけてくれる人がいることがうれしい。

3時間余り続いた会も終わりを迎えた。
中学校を卒業して45年もたっているが、一緒に学校生活を送ったのは、多感な3年間でしかない。
それも45年も前。
しかし、皆、自分の人生をそれぞれ懸命に生きてきた。
かかわり方に一人一人の濃淡はあれど、同じ時代を共有した仲間だな、と改めて思った。
中学時代にそういう人たちがいたから、今の自分につながる基盤ができたのだなあ、ということを再確認した。

貴重な機会を作ってくれた幹事の皆さんに、大いに感謝したい。
本当にありがとう。
そして、参加した皆さん、今回会えなかった皆さん、またいつか会いましょう。

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今夕、中学校の還暦同期会開催

2017-07-15 14:27:58 | 生き方
1972年(昭和47年3月卒)中学校同級生
還暦同期会ご案内状

拝啓 陽春の候 皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、私たち昭和47年3月卒業生がめでたく還暦を迎えました。
そこで45年ぶりの再会を祝して、地元で同期会を開くことになりました。
10年前に同期会を開催してから、早10年が経ちました。
つきましては、7月の連休に計画させていただきましたので、ぜひとも万障お繰り合わせの上、ご参加下さいますようお願い申し上げます。     敬具



4月の半ば過ぎ、このような案内状が届いていた。
去年は、高校の同級会を計画・実施した身としては、会を企画運営してくれる幹事の方の苦労は大変なものがあるだろうと思う。
だから、出席に丸を付けて提出した。
その開催日が今日であり、夕方に行われる。

あの時の中学校では、1学年7組まであった。
だから、250名以上在籍していたのではないかと思う。
といっても、いくら3連休の初日であっても、遠くへ行った者も多いから、50人くらい集まれば上等なのではないかな、と考えている。

10年前のこの中学校の同級会では、4人の恩師の先生方も出席していた。
残念ながら、私の恩師は、今はもうこの世にはいない。
今回は、先生方は呼んでいないと、聞いた。

それにしても、皆60歳を越えた。
何人が集まるか、出席者はどう変貌しているか(?)…。
その辺りを楽しんで来ることにしよう。
さて、出かける用意をしよう。
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蒸し暑き7月の思い出

2017-07-14 21:54:27 | 生き方
7月中旬。
蒸し暑い毎日が続くようになった。
エアコンは相変わらず故障中。
購入した電機店から販売会社に連絡が行ったが、見に来られるのは月曜日とのこと。
暑さに耐えるだけの毎日になりそうだ。

蒸し暑い毎日というと、最初にその蒸し暑さを経験した夏を思い出す。

高校を卒業した私は、京都の私大に進学したのだった。
そして、卓球部に入部して活動していたのだった。
現在は関西でも強豪となったが、あの当時その大学は関西リーグの2部だった。
やるスポーツが、卓球だけに屋内競技だ。
戸や窓を開け放しておこうものなら、風でボールが流されてしまうから、練習にならない。
あの当時は、冷房の付いた体育館なんて見たことがなかった。
だから、閉め切った体育館の中で汗だくになって練習するしかなかったのだ。
卓球台にさわると、熱かった。
熱を持っているのがわかった。

それが、蒸し暑い毎日を体験した最初の夏だった。
7月の中旬というと、今ごろ京都は祇園祭のシーズンである。
あの夏は、その頃、祭りを見る人たちの隙間をぬって、祭りも見ずに、先輩と二人で京都市内を寄付金集めに走り回っていた。
大学が、下旬に行われる全日本大学対抗に出場を決めていたからだった。
京都は、盆地だけに、冬は寒く、夏は蒸し暑い土地である。
それゆえ、大先輩たちの家を回りながら、これまた汗だくになっていたのであった。

7月。京都。18歳。
蒸し暑くなると、いつもあの夏を思い出すのである。
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夕方、30℃の中を13km走る

2017-07-13 22:17:48 | RUN
夕方、帰宅するために車に乗ったら、車の表示は、気温36℃を示していた。
それだけ、午後から暑くなった。
今朝方は雨が降ったというのに、一気に気温が上がった。
九州地方は梅雨明けしたという。
あれだけ豪雨被害にあったのだから、少しでも早く梅雨明けになった方がうれしいとは思う。
だが、逆に暑くなり過ぎると、片付け作業で熱中症もありうるだろう。
気をつけてほしいものだ。

そんな暑い中ではあるが、自宅近くの温度表示は30℃だった。
うん。これなら走ってきてもいいな。
日陰の多い公園内を走ろう、と塩飴4個をポケットに入れて走り出した。
思い返してみると、まともにレースに出ようと考えたのは、まだ8年前のことでしかない。
それも、10kmにエントリーし、走り切れるだろうか、と不安を抱えたものだった。
今日は練習で走った距離は、13km余り。
その当時に比べて、強くなったものだと思う。
あの頃は、体重が82,83kgあった。
今は、74kgである。
10km以上走るようになってから、体重が減った。
走るのは、走り始めた頃と同じで、週に1回か2回でしかない。
だが、1回に走る距離は、あの当時のように2,3kmでは物足りない。
10kmくらいは楽に走れるようになった。
ただし、以前の方が、速いスピードで走ることができた。
今は、その当時より若くなくなったということだろう。

今日も暑かったが、1kmあたり5分30秒以下で行こう、というめあてを立てて走った。
塩飴を3個かわるがわるなめながら、塩分補給。
5km、9kmで小休止を入れ、公園内の水道を使って水飲み。
13km余りを走ったら、ランニングパンツから、汗が文字通りしたたり落ちた。
走り終わったときは苦しかったが、その後、爽快感と満足感に包まれた。

いつまで走れるかなあ、とこの頃はよく思う。
この爽快感と満足感はずっと味わっていたいと思うのだ。
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サッカー天皇杯3回戦

2017-07-12 22:59:25 | アルビレックス新潟
サッカー天皇杯3回戦は、現在J1リーグで首位のセレッソ大阪との一戦だった。

幸い、新潟の本拠地で試合だったから、息子と応援に行った。
試合のメンバーは、新潟は先日の先発と同じ。
つまり、いわゆる、゛ガチ”だった。
対するセレッソは、一軍半のメンバー。

試合は、前半のうちに、新潟が先制した。
試合直前の練習で負傷した山崎に代わって急きょ出場した平松のゴールだった。

しかし、後半開始まもなく、相手にPKを与え、同点とされた。
その後は、新潟がずっと押し気味に試合を進めるも、得点を奪えずに前後半が終了。

そのまま延長となった。
延長前半、新潟が勝ち越した。
やったと喜んだら、その直後に追いつかれた。
心の隙間をつかれたという感じ。
緩むとすぐやられる。
今季の新潟の悪い癖だ。

結局延長の後半に逆転ゴールを奪われ、万事休した。

試合を見に行った観衆は、3,104人と寂しかったが、新潟を応援するゴール裏だけは熱かった。
10年余り前に、当時の職場の近くに勤めていた方に、本当に久々に会った。
その方は、アルビの人気ブログを書いている方だ。
そのいい縁で勝てるかも、と思ったが、残念であった。

もう一歩なのだがなあ。
もう一歩で勝てるのだがなあ。
勝ちきれない、というか引き分けにまで行けないことも悔しい。

しばらく試合がないが、勝利は確実に近づいている。
後半の巻き返しを心から期待したい。
期待できる試合だったと思うのだが…。

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