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ラジオ放送で、金春流“櫻間會”の「養老」を聴く。
不老長壽への憧れが、まさに泉の湧く如く滔々と謠はれた神能物。
そのお目出度尽しな雰囲氣は、この會派特有の覇気の無いぼんやりとした謠ひからでは傅はりにくいが──解説の大學センセイは「強い謠ひ方も柔らかく謠ふので古雅な味はひがある」と苦しい説明をしてゐたが───、詞を通讀するかぎり、それは“老い”や“死”に對する恐れの裏返しなのではないか、と穿ちたくなるのは、皮肉屋の惡いクセか。
浮世には、“後期高齢者”でも現役バリバリであちこちを飛び回り、つねに新たな挑戰にも取り組んでゐる人がゐる一方で、年齢は若くとも精神はとっくに天壽を全うしたやうな御仁もゐる。
なにをもって生き甲斐とするか──
靈泉の湧く様は生命力の溢れる様を象徴したものであり、
それがこの曲に謠はれる不老長壽の泉の正体であり、
その在処(ありか)は結局ところ、おのれの心の“どこか”と云ふ以外に分からぬ。
さういふものなのだ。