觀世流「高砂」を、ラジオ放送で聴く。
早春の水平線に朝日が昇るが如く、力強く爽快に謠ふのが心得云々、しかし字句も節付けもなかなか難しく、お素人が臨むには手強い曲と記憶してゐる。
しかし祝儀曲の第一であることから、曲の一部がいくつかの“小謠”となって、かつてはお祝ひの席で親しまれてゐた。
いつであったか、初老の女性が親類の結婚式でこの「高砂」の小謠をやりたいからと、忘流能樂師のもとへ稽古に通ってゐた。
「高砂や この浦舟に帆をあげて……」の件りを、そこそこの程度で謠ってゐたが、最後の「……着きにけり」になると、もふ癖になってゐたのだらう、必ず音程を外して、最後まで直らなかった。
稽古最終日、その初老女性は謝禮と云って、その場で財布より數枚の紙幣を剥き出しのまま、能樂師に差し出した。
もちろん包んで出すべきを知ってゐながらの、橫着だった。
無禮千萬、やることをどこまでも外すヒトだと呆れた。
後日、結婚式の席上で「高砂」を謠ったと得意氣に投稿した、知らない人のSNSを、たまたま目にした。
が、その日のために能樂師について稽古云々、の文面から、投稿者は明らかにあの初老女性だとわかった。
私も充分にお素人サンだが、ああいふド素人サンにだけはなりたくない、と思った。