橫濱人形の家三階の常設コーナー展示で、「山本福松と平田郷陽──生人形・見世物からの系譜」を觀る。
生人形(いきにんぎゃう)とは、幕末に流行った細工見世物を起源とする、文字通り生身の人間のやうな冩實味に富んだ人形のことで、胡粉を下地に色付けされた肌(表面)の表現に特徴がある。
(※二代目平田郷陽・作「泣く児」 昭和十一年 展示室内撮影可)
生人形の本格的な製作者としては、幕末に大坂の難波新地で生人形の見世物興行を行なって大成功を収めた松本喜三郎がまず挙げられ、私も大阪在住の時代に博物館の企画展で、松本喜三郎作の生人形を觀に行ったことがある。
もともとは貴族の衣裳が着せられてゐたと云ふ男性を象った生人形が、衣裳が失はれていはゆる全裸の形で展示されてゐて、それはもちろん衣類に隠れて見えない部分も忠實且つ冩實に作られてゐることを示す意図で敢へてさうしたわけだが、觀覧してゐた二人づれの若い女性がその男性生人形の下半身を見て、「ああ、“付いて”ゐるんだね」とサラっと云ってゐたことを記憶してゐる。
見方によっては冩實さより不氣味さが先立つ生人形は、美術展などに出展する“藝術品”ではなく、あくまで大衆相手の“見世物”興行に作られたため、興行が終はると壊されたり、別な作品に作り替へられたりして、現物が今日にほとんど殘ってゐない。
上の松本喜三郎の生人形は、愛好家が蒐集したものゆゑ、辛うじて數點が殘ったものと記憶してゐる。
さうした令和現代では幻のやうな生人形とその興行の様子が、“山本福松冩真資料”として十五點展示されるとのことで、現代版見世物興行と思って出かける。
↑右が加藤清正の生人形で、左が作者の二代目山本福松。
昭和初期に撮影されたもので、注釈ヌキではどちらが生人形かわからない。
↑の二點も、何も知らなければ昔の市井の一コマを撮った風景冩實にしか見へないだらう。
自分の趣味柄、戰前に活躍した代表的な歌舞伎役者の生人形より、私はこれら人形の冩實味がいかに優れてゐたかをはっきり知る。
↑の二點はいづれも「白浪五人男」の場面から取材したもので、役者が誰か案内なしですぐにわかるほどの出来榮え、現在も殘ってゐたら貴重な演劇資料になったかもしれない。
(※工房で製作中の山本福松)
貴重で面白い見世物を樂しんで、會場をあとにしたその隣りには、現代の作家による、現代の生人形がこちらに手招きしてゐた。
……のではない、前回に竹田人形を觀た際に逢った彼女たちがここにゐたはずと、私から足を運んだのである。
……のではない、前回に竹田人形を觀た際に逢った彼女たちがここにゐたはずと、私から足を運んだのである。
前回のあと展示替へがあったやうで、またほかの顔触れであったが、今度は後退りに逃げることなく、「お久しぶり」と挨拶する。