鎌倉歴史文化交流館の企画展「和鏡」を観る。
弥生時代に傳来した銅鏡は平安時代になると國風化し、以後江戸時代までの鏡を「和鏡」と云ふ。
裏面の文様は室町時代に入るといはゆるマンネリ化するが、江戸時代になると日常風景や自然風景、または「源氏物語」などの古典文学から取材した絵柄が考案され、幅に広がりをみせる。
形状も、それまでの圓形のほかに方形や小判型、または銭を模ったものなど、遊び心に富んだものも造られ、鏡が庶民の日常道具として浸透してゐた様が窺へる。
この企画展でもっとも興味があったのが、祭祀や呪術道具としての「魔鏡」で、
(※館内展示物はフラッシュを焚かなければ撮影可)
鏡面を太陽光にあてると、反射光のなかに裏面の図柄が浮かび上がる、といふもの。
これは表ての鏡面を1㎜の厚さまで磨くと、裏面の図案の凹凸が表てにも微妙な凹凸を生み出し、それが反射光に明暗の差をつくる、と云ふタネのやうだ。
結局はつくられた神秘、といふことになるが、しかしおのれの姿を映すものが水面と鏡面しかなかった古へでは、ありのままを映し出し、ときに強烈な光をも発する鏡は、現在の我々が思ふ以上に畏怖の道具だったのだ。
いまも話したやうに、おのれの姿を映すものは、鏡のほかに水面があった。
「水鏡」、とはもっとも原始的な鏡であり、
『水面をかがんで見るから「かがみ」と云ふやうになった』
との語源説もあるほど。
浄瑠璃芝居の「双蝶々曲輪日記」“引窓”で、南方十次兵衛がおたずね者の濡髪長五郎の姿に気が付くのも、手水鉢に映った水鏡がきっかけだ。
私も瓶にはった水に映る、おのれのツマラナイ面相を眺めながら、
「能樂に面をかけない“直面(ひためん)”の曲があるのだから、自分もさういふ直面の手猿樂を創ってみやうかしら……?」
そんな考へを浮かべてみた。