国立演芸場へ、「第21回 桂文我 桂梅團治 二人会」を聴きに行く。
「開口一番」で「狸の賽」を口演した笑福亭呂好がマクラのなかで、
「よく、『食っていけるのか?』と訊かれます」
と話してゐたが、なるほど私も今は昔、他人(ひと)からよく言はれた言葉だった。
「食っていけるのか?」──
訊ひてゐる側はもちろん、
「食っていけないだらう?」
と言ふ意味で、つまり分かってゐて、訊ひてゐるのである。
それだけに、私はこれを訊かれるたびに腹が立った。
こちらが仮に、
「食っていけません」
と答へたところで、その人は決して、食っていけるやうに取り計らってくれるわけではないのだ。
「さうか……」
それで話しは打ち切りである。
無責任なことである。
その道で食っていけるやうになりたいために、敢へて苦労の道をえらんだに決まってゐるのだ。
助けるつもりもないヤツは黙ってゐろ──!
あの頃、何度さう思ったことだらう。
もちろん現在(いま)も、
「陰ながら応援してゐます」
と並んで、嫌ひな言葉である。
“陰ながら”は、「何もしません」の同義語であり、社交辞令にすらならぬ。
さて、呂好のマクラに話しを戻すが、ある人が酒の席で、あらうことか大ベテランの噺家に、「落語家で食ふていけまっか?」と訊ひたと云ふ。
するとその大ベテランの噺家は、酔ひも手伝ってか、かう答へたさうな。
「……食べるものにもよりますな」
大好きな「せり」の出囃子が聞こへてくると、いよいよ桂文我師の登場。
一席目は「三年酒」で、上方の落語家でも現在ではほとんどの人が知らないといふ、今となっては珍しい噺。
土葬が普通だった昔、実は仮死状態だった“ホトケ”が土のなかで息を吹き返すことがあったさうで、そのあたりのことも背景にあって成立した噺ではないだらうか。
後半の二席目は、昨秋に新宿末廣亭でも披露した「高台寺」。
千年の喜怒哀楽を包含した京都を舞台にした、いかにもこの土地ならではの幽玄味漂ふ一席。
こちらも土葬が出てくるが、若くして死んだ女の我が子へのせつないまでの情愛を、文我師が端麗な語り口でじっくり聴かせ、サゲも前回より磨きが掛かってゐた。
一方、今回はじめて聴く桂梅團治師は、東京へ出て二代目三遊亭百生となった先代を彷彿とさせる声で、大阪では一般的な「米揚げ笊(いかき)」、そして戦国大名の不風流さを皮肉った「荒大名の茶の湯」の二席を滑稽味たっぷりに聴かせ、両師それぞれに対照的な持ち味が際立つ、楽しい落語会となった。
間には両師の「爆笑対談」が設けられ、私は“林家九蔵”の一件につひて、もう少し二人の話しを聴きたかった。
今回襲名し損なった当人を、私は以前に両国寄席でたまたま見たことがあるが、つまらないといふ印象だった。
なんの名跡であれ、“襲名”をするほどの技量(うで)ではないと、私は思った。
この頃は、なにを何を考へてゐるのかわからない襲名が多過ぎる。
一人くらい、待ったを掛けられるのがいてもよい。
「開口一番」で「狸の賽」を口演した笑福亭呂好がマクラのなかで、
「よく、『食っていけるのか?』と訊かれます」
と話してゐたが、なるほど私も今は昔、他人(ひと)からよく言はれた言葉だった。
「食っていけるのか?」──
訊ひてゐる側はもちろん、
「食っていけないだらう?」
と言ふ意味で、つまり分かってゐて、訊ひてゐるのである。
それだけに、私はこれを訊かれるたびに腹が立った。
こちらが仮に、
「食っていけません」
と答へたところで、その人は決して、食っていけるやうに取り計らってくれるわけではないのだ。
「さうか……」
それで話しは打ち切りである。
無責任なことである。
その道で食っていけるやうになりたいために、敢へて苦労の道をえらんだに決まってゐるのだ。
助けるつもりもないヤツは黙ってゐろ──!
あの頃、何度さう思ったことだらう。
もちろん現在(いま)も、
「陰ながら応援してゐます」
と並んで、嫌ひな言葉である。
“陰ながら”は、「何もしません」の同義語であり、社交辞令にすらならぬ。
さて、呂好のマクラに話しを戻すが、ある人が酒の席で、あらうことか大ベテランの噺家に、「落語家で食ふていけまっか?」と訊ひたと云ふ。
するとその大ベテランの噺家は、酔ひも手伝ってか、かう答へたさうな。
「……食べるものにもよりますな」
大好きな「せり」の出囃子が聞こへてくると、いよいよ桂文我師の登場。
一席目は「三年酒」で、上方の落語家でも現在ではほとんどの人が知らないといふ、今となっては珍しい噺。
土葬が普通だった昔、実は仮死状態だった“ホトケ”が土のなかで息を吹き返すことがあったさうで、そのあたりのことも背景にあって成立した噺ではないだらうか。
後半の二席目は、昨秋に新宿末廣亭でも披露した「高台寺」。
千年の喜怒哀楽を包含した京都を舞台にした、いかにもこの土地ならではの幽玄味漂ふ一席。
こちらも土葬が出てくるが、若くして死んだ女の我が子へのせつないまでの情愛を、文我師が端麗な語り口でじっくり聴かせ、サゲも前回より磨きが掛かってゐた。
一方、今回はじめて聴く桂梅團治師は、東京へ出て二代目三遊亭百生となった先代を彷彿とさせる声で、大阪では一般的な「米揚げ笊(いかき)」、そして戦国大名の不風流さを皮肉った「荒大名の茶の湯」の二席を滑稽味たっぷりに聴かせ、両師それぞれに対照的な持ち味が際立つ、楽しい落語会となった。
間には両師の「爆笑対談」が設けられ、私は“林家九蔵”の一件につひて、もう少し二人の話しを聴きたかった。
今回襲名し損なった当人を、私は以前に両国寄席でたまたま見たことがあるが、つまらないといふ印象だった。
なんの名跡であれ、“襲名”をするほどの技量(うで)ではないと、私は思った。
この頃は、なにを何を考へてゐるのかわからない襲名が多過ぎる。
一人くらい、待ったを掛けられるのがいてもよい。