昨夏に淺草で才氣煥發ぶりを發揮した尾上右近の「京鹿子娘道成寺」が、今度は歌舞伎座初春興行の夜の部で上演云々、これはまたぜひ觀たいと、樂しみに出かける。
淺草公會堂の自主公演で“初演”した時には、才氣が迸(ほとばし)るあまり踊りがやや粗っぽくなるきらいがあったが、今回はそれがまろやかに仰えられ、しなやかで大人っぽい白拍子へと著しく進化してゐて、これぞ大芝居の道成寺、
(※六代目尾上菊五郎の白拍子花子 昭和五年四月 東京劇場)
觀應へある櫻姿に陶然となる。
その前の「息子」は英國人ハロルド・チャピンの戯曲「父を探すオーガスタス」を小山内薫が翻案し、大正十二年三月の帝劇興行で六代目尾上菊五郎の金次郎、四代目尾上松助の火の番の老爺、十三代目守田勘彌の捕吏で初演された一幕短編劇。
(※六代目尾上菊五郎の金次郎、四代目尾上松助の火の番の老爺、十三代目守田勘彌の捕吏 大正十二年三月 帝劇)
今回は“高麗屋三代”が揃って出演するのがウリのやうだが、三人とも役の造形が型に嵌まり過ぎて際立つものがなく、平板でただただ退屈な三十分、捕吏などはせいぜい意氣がって芝居してゐるが、老爺にもふ一人“息子”ゐるやうにしか映らない。
前もって讀んでおいた戯曲のはうがよっぽど面白く、火の番の老爺は、前進座の故人中村梅之助が演じたら面白い人物像を見せたかもしれないと思った。
順番が逆行するが、夜の部序幕の舞踊「鶴亀」と、續く「寿曽我対面」は初春興行定番の祝祭物、出演者の顔触れからいっても、ただオメデタイ氣分で眺めてゐればそれで充分に事足りるしろもの。
(※初代吉右衛門の工藤、十五代目羽左衞門の十郎、六代目菊五郎の五郎、三代目時蔵の虎、七代目三津五郎の朝比奈ほか 昭和十四三月 歌舞伎座「吉例曽我礎」)
「鶴亀」の“女帝”はあまりそれらしくも見えないが、化粧顔は病に倒れる直前の頃より現在のはうが綺麗だ。
さりながら、新年の祝祭氣分も、ふとした一瞬で簡單にひっくり返ってしまふ現實を、私たちは能州の大地震で見せつけられてゐる。
幸福だの至福だのは、かくまで脆いものなのか。
とにかく、いまの時間を大切に過ごすことだ。