朝のラジオで、金春流「戀重荷」の再放送を聴く。
金春流の「戀重荷」は七十九世宗家が復曲したもので、その子息で八十世宗家の舞台は國立能樂堂で一度観てゐる。
後半は惡鬼となって現世に舞ひ戻り、上臈に散々怨みを述べると一転して彼女の守り神とならうなどと誓ってみせる老人の尻腰(しっこし)の無さが、私には好きになれない。
それよりも演能の前後で、作り物とは云へ劇中での“重荷”を、後見がふつうに軽々と持ち上げて出入りするのが見てゐて面白かったことだけ、はっきりと憶へてゐる。
しかし今日の放送でいちばん面白かったのは、前座の曲目解説がいかにもその辺の中年主婦を引っ張って来て無理矢理やらせたかのやうな、ド素人の棒讀みであったこと。
先週の片山幽雪の回のうるさい禮讃型も閉口だが、今日のやうなあそこまでド素人讀みをされては、せっかく放送時間に合はせて早起きしてもまた眠くなってしまふ。
二年前、私の好きなラジオCMで、今日のやうな中年主婦らしきド素人が新製品の性能につひての説明文を棒讀みして──もちろんそれは演出である──、「これでは商品の魅力が傅はりませんよね?」と皮肉ったものがあった。
あの聲と今日の聲と、よく似てゐたのは勘違ひでもあるまい。
なるほど、能樂はたしかに眠くなる。