臺風十號の関東沖合通過による雨音を窓の向こうに、朝のラジオ放送で二世梅若萬三郎の謠に耳を澄ます。
曲は太鼓方金春流の故柿本豊次と組んだ独鼓「邯鄲」。
唐國の悩める青年邯鄲が、榮耀榮華の夢枕からからいっぺんに覺める件りで、私も過去に舞囃子の地謠をつとめたことがある。
調子がしっかりと入ってゐれば、謠ってゐて氣持ちの良い箇所だ。
梅若萬三郎──
初世は明治元年に生まれ、父や弟と共に衰退してゐた明治期の能樂を隆盛へと導ひた功勞者の一人であり、觀世流の現行曲二百數十番のすべてを舞ったと云ふ傅説の持ち主であり、明治三十六年に日本で初めて行はれた“レコーディング”に参加して謠を吹き込んだ先駆者であり──その音源は現存してゐる──、大正の後半には二十四世宗家觀世元滋と對立して“梅若流”を興すも、昭和初期に和解して復流した挑戦者であり、“大成版”謠本の参與であり、戰後まで長壽を全ふせり。
現在の三世は初世の孫であり、私も舞台をいくつか観たことはあるが、殆ど印象に残ってゐない。
二世は、その三世の父であり、初世の四男にあたる。
戰後の昭和二十三年に父の名をつひで二世となり、平成三年まで存命とのことだが、よくあるところの偉大な父を持った二代目として相當苦勞したのか、『能は何も残らないはうがいいんだよ』と達觀したやうな言葉を遺し、そしてそれを有言實行したかのやうに、現在では二世梅若萬三郎につひての資料は殆ど目に触れることもなく、また語られることもない。
私自身、舞台冩真を一枚見たことがあるだけだ。
それだけに、今日の放送への関心は深く、耳で會へるのを樂しみにしてゐた。
「月人男の舞なれば……」
古いレコードに遺る初世の骨太にして華麗な謠の、華麗さをよく受け継ぎ、深みのある聲質は三世に受け継がれてゐる
──
さういふ印象を受けた。
そして、正座して謠ふ姿の端麗さをも彷彿とさせて、何も残さないのは勿体ない氣がした。