神奈川県川崎市多摩区の明治大学平和教育登戸研究所資料館──旧登戸研究所“九研”にて、「少女が残した登戸研究所の記録」展を観る。
第二次大戦中に“秘密戦”の研究が行はれてゐた登戸研究所は、敗戦後に全ての資料を焼却、または破壊して痕跡を絶ったが、昭和十六年から十九年にかけて登戸研究所の第二科でタイピストとして勤務してゐた十代の少女が、「雑書綴」としてその書類の一部を生涯密かに、そして大切に保管してゐた──
それらは彼女が自らタイプライターで作成した領収書や証明書などで、軍の機密文書でこそない。
しかし、毒物や害虫、病菌などの購入が事務的に印字されたそれら書類は、薬物細菌研究の担当部署だった第二科の実像究明の手掛かりとなる、重要書類群だった。
彼女は、登戸研究所第二科の実態を後世に傳へ遺すため、これらを「雑書綴」として密かに保管していたのではない。
そもそも彼女は登戸研究所について、
「軍事のことをやっているとボヤッとは聞いていた」
くらゐの認識しかなく、それはこの研究所に一般採用された地元民間人に共通するものだった。
十五歳で研究所に雇はれ、タイピスト養成学校へ夜學で通ひながらひたむきにタイピストとしての上達をめざし、十九歳で敗戦を迎へた彼女は、
「五年間精魂をこめた仕事の思い出を持っていたい」
と云ふ、いかにも十代の少女らしい純粋な気持ちから、“軍の記録”ではなく“自分の記録”として、自らが作成した書類を手許に残したのである。
かくして、戦争は事實を何ら知らされることなく、自分の職務に純粋に真面目に打ち込んでゐたかうした一般人を、結果的に騙して利用し、そして巻き込んでいった非道の極みである認識を、改めて強くする。
この登戸研究所資料館も、三月二日から半月間、“例の如く”で臨時休館すると云ふ。
このたびの支那肺病は、軍の研究施設が発生源との“説”を、私はあながち否定できないものと考へてゐる。
この時期に登戸研究所資料館の企画展に出かけたのはたまたまだが、いまの狂態を重ね合はせつつ、かつてここで研究されてゐたことが本格的に實用化されてゐたらと思ふと、背筋が寒くなる。
いや、かの「帝銀事件」こそが、“實用例”だったのではないか──?
為政者の要請で娯楽施設や文化施設が次々に機能を休止させるなか、間もなくあらゆるものが過剰な連鎖反応を起こしさうな気がする。
さうしてやがては、
「自粛」と「萎縮」の境目が、
不明瞭になっていくのだ……。