川崎市多摩区の明治大学平和教育登戸研究所資料館で、「帝銀事件と登戸研究所」展を見る。
昭和二十三年(1948年)一月二十六日の十五時半頃、帝国銀行椎名町支店におゐて行員たち十二名が毒殺された凄惨な事件は、今なお真相は謎とされてゐる。
横溝正史はこの事件も参考に「悪魔が来りて笛を吹く」を書き、作中では“天銀堂事件”としてゐるそれを通して、当時學生だった私はこの事件を知った。
のちに私は熊井啓監督の追悼上映会で「帝銀事件 死刑囚」(昭和39年 日活)を観、昨年には松本清張の「小説帝銀事件」を読んだばかりのところだ。
今回、改めて「小説帝銀事件」を読んで“復習”してから、
この企画展に出かける。
警察は、事件の生存者たちなどの証言から犯人は薬品(毒物)の取り扱ひに慣れた者とにらみ、旧帝國陸軍の毒物研究者たちの線をかなりのところまで追ってゐたと云ふ。
しかし、使用された毒物は「青酸ニトリール」か、「青酸カリ」かで研究者の意見は分かれ、次第に捜査は行き詰まっていったらしいことが、今回の展示パネルから窺へる。
いっぽう、“名刺捜査” といふもう一つの線を追ふなかで、平沢貞通氏といふ横山大観門下の帝展画家が、容疑者として浮上する。
そして彼を北海道で拘束して東京へ護送したことから、捜査方針は平沢氏の事件関与の徹底追及へと、急転換する。
かくして決定的な証拠も無いまま、本人の自白を唯一証拠に起訴された平沢貞通氏は、昭和二十五年に死刑判決が下る。
平沢氏はその後も無実を訴へ、獄中から三十二年、十八回にわたって再審請求を行なったが全て棄却され、昭和六十二年(1987年)五月十一日、獄中で肺炎のため九十五歳で亡くなる。
この享年に、無実であることへの強い執念を感じる。
しかし「小説帝銀事件」によれば、平沢氏自身も過去に詐欺まがいの行為があったやうなので、私はあまり氏の気持ちに同情が出来ない。
それはさておき、この「帝銀事件」といふ不可解な事件の、不可解な結末には、松本清張も「小説帝銀事件」で指摘してゐるとほり、当時の占領軍──GHQの影が見え隠れしてゐるところに、昭和二十年代といふ時代を感じる。
今回の企画展では、旧帝國陸軍で毒物研究に携わった者たちが遺した文献などを通して、その部分にもそれなりに触れてはゐるが、やはり肝心な部分は当時の“密約”に従って明言を避けてゐるため、内容のもどかしさは免れない。
米ソ冷戦時代、米國は旧大日本帝國陸軍の毒物研究の成果を喉から手が出るほど欲しがってゐたこと、
また日本側の研究者のなかには、
「(本当のことは話せないので、)モンタージュ写真を使った捜査をやっていた方が良い」
といふ意味の言葉を遺してゐることから、
あとは推して知るべし──
ちなみに、使用された毒物に推定された「青酸ニトリール」は、昭和十四年に陸軍の秘密研究施設として開設された「登戸研究所」でつくられたもので、そこが現在の、明治大学平和教育登戸研究所資料館のある敷地である。
館内に展示された研究所時代の諸々を併せて見學するにつけ、
負け戦さに踏み迷った國の哀れさ、
愚かしさを思ひ知る。
昭和二十三年(1948年)一月二十六日の十五時半頃、帝国銀行椎名町支店におゐて行員たち十二名が毒殺された凄惨な事件は、今なお真相は謎とされてゐる。
横溝正史はこの事件も参考に「悪魔が来りて笛を吹く」を書き、作中では“天銀堂事件”としてゐるそれを通して、当時學生だった私はこの事件を知った。
のちに私は熊井啓監督の追悼上映会で「帝銀事件 死刑囚」(昭和39年 日活)を観、昨年には松本清張の「小説帝銀事件」を読んだばかりのところだ。
今回、改めて「小説帝銀事件」を読んで“復習”してから、
この企画展に出かける。
警察は、事件の生存者たちなどの証言から犯人は薬品(毒物)の取り扱ひに慣れた者とにらみ、旧帝國陸軍の毒物研究者たちの線をかなりのところまで追ってゐたと云ふ。
しかし、使用された毒物は「青酸ニトリール」か、「青酸カリ」かで研究者の意見は分かれ、次第に捜査は行き詰まっていったらしいことが、今回の展示パネルから窺へる。
いっぽう、“名刺捜査” といふもう一つの線を追ふなかで、平沢貞通氏といふ横山大観門下の帝展画家が、容疑者として浮上する。
そして彼を北海道で拘束して東京へ護送したことから、捜査方針は平沢氏の事件関与の徹底追及へと、急転換する。
かくして決定的な証拠も無いまま、本人の自白を唯一証拠に起訴された平沢貞通氏は、昭和二十五年に死刑判決が下る。
平沢氏はその後も無実を訴へ、獄中から三十二年、十八回にわたって再審請求を行なったが全て棄却され、昭和六十二年(1987年)五月十一日、獄中で肺炎のため九十五歳で亡くなる。
この享年に、無実であることへの強い執念を感じる。
しかし「小説帝銀事件」によれば、平沢氏自身も過去に詐欺まがいの行為があったやうなので、私はあまり氏の気持ちに同情が出来ない。
それはさておき、この「帝銀事件」といふ不可解な事件の、不可解な結末には、松本清張も「小説帝銀事件」で指摘してゐるとほり、当時の占領軍──GHQの影が見え隠れしてゐるところに、昭和二十年代といふ時代を感じる。
今回の企画展では、旧帝國陸軍で毒物研究に携わった者たちが遺した文献などを通して、その部分にもそれなりに触れてはゐるが、やはり肝心な部分は当時の“密約”に従って明言を避けてゐるため、内容のもどかしさは免れない。
米ソ冷戦時代、米國は旧大日本帝國陸軍の毒物研究の成果を喉から手が出るほど欲しがってゐたこと、
また日本側の研究者のなかには、
「(本当のことは話せないので、)モンタージュ写真を使った捜査をやっていた方が良い」
といふ意味の言葉を遺してゐることから、
あとは推して知るべし──
ちなみに、使用された毒物に推定された「青酸ニトリール」は、昭和十四年に陸軍の秘密研究施設として開設された「登戸研究所」でつくられたもので、そこが現在の、明治大学平和教育登戸研究所資料館のある敷地である。
館内に展示された研究所時代の諸々を併せて見學するにつけ、
負け戦さに踏み迷った國の哀れさ、
愚かしさを思ひ知る。