日本郵船歴史博物館の企画展「淡路丸船長の日記~ラストエンペラー天津脱出~」を見る。
昭和6年(1931年)9月18日に満州事変を勃発させた大日本帝國関東軍が打ち出した“独立国家思想”のもと、日本軍特務機関は天津に疎開してゐた清朝最後の皇帝溥儀を、満州へ“脱出”させる計画を立てる──
同年11月10日、二十五歳の溥儀は日本軍人に変装して天津を脱出、11日に大沽(タークー)口外で日本の貨客船「淡路丸」に乗り込み、13日に牛荘(営ロ)の満鉄埠頭に無事到着する。
今回展示されたのは、その「淡路丸」の船長だった渡邊順二氏が記した日記で、「貴重なる御客」を密かに乗せた三日間のうち、特に溥儀を無事に乗船させて出航するまでが、緊迫感をもって綴られてゐる。
日記によれば、“密航中”の溥儀は機嫌が良かったらしく、甲板で一行と船長との記念撮影にも応じてゐる。
もっとも、併せて展示されたその写真に見る溥儀は、ひとりだけ無表情で真ん中に収まってゐる。
だがその無表情の下では、自分のルーツである満州で、悲願だった皇帝復帰が果たせることに胸躍らせてゐたはずだ。
そのために、溥儀は危ない橋を渡ることを覚悟で、関東軍の企みに乗ったのである。
ところが、相手の関東軍のはうが一枚上手だった。
先祖の故郷である満州で清朝皇帝として復帰したつもりの溥儀だったが──だから皇帝即位式では光緒帝が着た龍袍の着用にこだわった──、実際には関東軍の傀儡、“お飾り”にすぎなかった。
利用したつもりが、かえって徹底的に利用されたのである。
そして1945年8月に満州國が解体されるとソ連軍に連行され、“戦犯”にされ、中華人民共和国から“改造”され、北京の一市民となって六十一年の生涯を終へる。
溥儀の側近として共に満州へ脱出し、満州國の初代国務総理となった鄭孝胥(てい こうしょ)も、清朝復活を強く望む文人政治家だったが、もとより肚を異にする関東軍と意見が合ふはずもなく、満州國建國から三年後の1935年に失脚し、さらにその三年後、長春で七十七歳で亡くなる。
溥儀の“脱出”に関わった「淡路丸」船長の渡邊順二氏は、あの三日間が生涯忘れられない出来事となり、渡航中の船上で鄭孝胥が揮毫した書や、その後溥儀から届ひた礼状などを永く大切に保存した。
その渡邊順二氏が船長をつとめた「淡路丸」は、1944年にマニラを航行中に魚雷をうけて沈没する──
1931年11月当時の日記にはもちろん書かれていない各人の“その後”に、私は運命といふ抗ひがたき物語を読む。