晴天に縁のないこの頃の空を見上げると、柿の木にまだ小さいが、実の成っているのを見つける。
世上の混迷にはまったく関わりなく、草木は四季に身を委ねて生きてゐる。
無駄な情報が、
浮世を混乱に陥れる元凶なり。
またそれにまんまと乗せられる人間も、然り。
無心になることは、難しいのだらうか。
自分の気持ちに合致した本に巡り逢へた時、
自分の気持ちに合致した“型”を、扇を片手に生み出 . . . 本文を読む
国立演芸場の演芸資料展「落語 味わいどころ所作どころ」展を覗く。
落語はいふまでもなく“話藝”だが、そこに噺家自身の身振り手振り、また扇子や手拭ひを使って物に見立てるなど、“見せる”要素も濃ひところが、朗読劇との決定的な違ひだ。
そんな身振りや見立てのなかには、現代人が原形を目にすることが無くなったがために、なにを意味してゐるのかわからないものも、これからはどんどん出で来るだらう。
それら . . . 本文を読む
“平成の大横綱”の若い弟子が、
「部屋を移籍しても、師匠から頂いたしこ名は変へない。変へるとしても、師匠の一字は変へない」
と表明してゐることに、深い共感を覚える。
その道で生きる者にとって、師匠から頂いた名前とは、命に等しいもの、寳なのだ。
私が師匠亡き後、大阪で五年もの間独りで生きてこられたのは、師匠が私に遺してくれた“藝名”の力に拠るところが大きい。
師匠から頂いた名前とは、 . . . 本文を読む
時たま訪れる丘の公園に、台風一過の残骸。
そばの遊戯用ログハウスは、子どもたちの嬌声で溢れてゐる。
何事も、元気に勝るものはないと思ふところに、おのれの年齢の現実がある。
公園を入り口では、野良猫に餌付けする老婆あり。
さりながら、その野良猫を自分が引き取り飼わうとはしないところに、卑怯な根性が浮き彫りになってゐる。
駅に向かふ。
台風一過は、鉄道業界の詰めの甘さをも、暴き出した。 . . . 本文を読む