赤ちゃんポスト運用初日に想定外の年長児が託され話題になっています。
私は子供を育てる意思のない親に無理やり子供を縛り付けるよりは、施設等で育てることのほうが子供にとってよかったのではないかと考えています。
“家族”という概念は「本来親子の間には自然発生的に深い情愛が存在しているものだ」という前提、「家族は互いにいつくしみあう関係であって欲しい」という願望、「育児、親孝行は親子の責務である」という規範などが一体となっているように思われます。
生き物のなかには家族をつくるもの、そうでないものがあるように、また、文化によって様々な家族のバリエーションがあるように、必ずしも現在の家族という存在は自明のもの、当然の形態でもないような気がしています。
様々な社会的な要請・条件の影響下で形成されているもののようにも思えます。
母親と子供の関係は男性にはうかがい知れぬところがありますが、少なくとも父親という存在は自然発生的な自明のものというより、社会的につくられた制度のひとつであるように思えます。
母子関係にしても「おなかを痛めた子供との間には深い情愛の絆が存在する」というのも必ずしも常には言えないもののような・・・。
「本来親子の間には自然発生的に深い情愛が存在しているものだ」という前提を当然のものとして受け入れるのでなければ、男女が一緒に暮らさなくても生きていけるようになった社会、子供を労働力として期待しなくてもよくなった社会、子育てを行える社会的受け皿が存在できる社会、そういった社会の変化に応じた様々な親子関係のバリエーションが存在してもいいのではないでしょうか。
「こうあって欲しい」「こうあるべき」という願望・規範・価値観で従来からの家族という形態に縛り付ける必要もないのではないでしょうか。
シングルマザーに育てられる子供、施設等で社会的に育てられる子供、そして両親のもとで育てられる子供、その全ての子供が等しく大切に育てられるのであれば、それはそれでいいのでは。
全ての子供が等しく社会的に受入れられるのであればそれでいいのであって、人々の意識や社会制度について、そのような方向に変革していくべきなのではないでしょうか。
両親のもとで育てられるか否かということは子供に大きな影響を与えるファクターではあります。
しかし、もとより子供はひとりひとり能力も個性も異なるというように差をもった存在です。
経済的、社会的な環境にも差が存在します。
両親のもとで育つか否かという差も、大きな要素ではありますが、基本的にはそのような差のひとつと言えないでしょうか。
どのような環境で育つにしても、子供がひとりの自立した人間となって、自分の人生を楽しめるような人間になってくれれば、それでいいのでは。
写真は今年GWに旅行したインドネシアのスマトラ島、ブキティンギの公園で夕方憩う人々。