「この状態では脱出すらできない」。スリランカ政府軍が北東部に立てこもる反政府武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)への最終攻撃を本格化した14日、戦闘地域に閉じ込められた病院の男性医師(39)は毎日新聞の電話取材に切迫した状況を伝えた。
医師によると、戦闘は10日ごろから散発的に始まった。LTTE支配地域に取り残された多くのタミル人市民が、「病院なら攻撃されない」と信じて駆け込んできた。治療が必要な数百人以外は建物の外で野宿している。
LTTE側は10日、この病院について「政府軍の攻撃で2000人以上死亡した恐れがある」と主張していた。医師は「死者は推定数百人。病院の敷地外に放置されたままの遺体も多く、実際の数は分からない」と言う。
戦闘には、政府が民間人への被害を防ぐため「使用しない」としていた迫撃砲も使われているようだ。ただ、医師は「どちらの攻撃かなんて分かるはずがない」と打ち明けた。
病院の様子は悲惨だという。頭に包帯をぐるぐる巻いた幼児が、行方不明の母親を捜して泣き叫ぶ。骨が浮き出るほどやせた老人たちが床の上で息を引き取っていく。
戦闘の影響なのか、電話回線は数分おきに途切れる。通算20分間、言葉を選びながら語った医師は、「病院にLTTEか政府軍はいるか」との質問をきっぱり否定。「最後の患者が保護されるまでここに残る」と語った。【2009年5月15日 毎日】
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(夕暮れ時のサマルカンド・レギスタン広場 11月6日 ウズベキスタン最大の観光スポットですが、さすがに一見の価値がある景観です)
【不透明な為替レート】
5日から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中で、観光3日目の今日(8日)は古都ブハラの遺跡巡りでした。
ウズベキスタンの通貨はスム、ネットで為替レートを検索すると「1円=86.5スム」といった数字が出てきますが、実際にガイド氏が両替してくれたレートは「1円=70スム」程度。
ガイド氏のレートが不当に悪いのか・・・そのあたりの事情はよくわかりません。
さらに、現在の状況はよくわかりませんが、2015年当時の記事を見ると、公式レートと市中の実勢レートには倍近い差があるといった指摘も。【2015年8月20日 島田晴雄氏 「ウズベキスタン通貨「スム」の交換レートの不透明性」より】
つまり、市中で闇両替すれば、1円が100スム以上にもなる・・・ということです。
旅行者にとっても本来なら大きな問題ですが、今回はツアー参加のため、現地で使用するおカネは飲み物代など極めて少額ですむので、あまり問題にもすることなくすませています。
【現金社会】
日本でウズベキスタンのことが記事になることは殆どありませんが、珍しく目にしましたので。
やはりおカネの話です。
****札束が飛び交う現金王国ウズベキスタン、キャッシュレス社会へ一歩****
日本をしのぐ「現金王国」がある。中央アジアのウズベキスタンだ。買い物では札束が飛び交うが、財布を持つ人は見かけない。激しいインフレで紙幣の束が分厚くなりすぎ、財布に入りきらないからだ。
首都タシケントにある市場「チョルス・バザール」に入ると、広大な敷地に店が並び、ありとあらゆるモノが売られていた。解体されたばかりの羊や牛の肉、トマトやタマネギなどの野菜、果物、香辛料、陶器、衣類……。
銀行カードで支払いができるという表示はあるが、買い物客はみな通貨「スム」の札束を渡している。ウズベキスタンでは、まだ給料を現金でもらっている人が多く、銀行口座にあまりお金が入っていないという事情もある。
「Cash is King(現金は王様)」。ウズベキスタンの財務副大臣オディルベク・イサコフ(38)はそう言って苦笑した。
2年前から米ドルに対する為替相場は半分以下に急落し、インフレ率は20%近い。「お金が余ったら不動産や牛・羊などを買うか、米ドルに両替する人が多い」。
金利がつかない預金では、価値が目減りすることになり、米ドルや資産に換えれば、逆に価値は上がるからだ。それでも買い物の前には、スムに両替しなければならない。
ウズベキスタンでは2017年に1万スム札と5万スム札、今年は10万スム札が発行された。10万スムでも、日本円では1100円ほどだ。
その前は自動車など高額なものを買うには大量のお札が必要だった。スーパーの大きいレジ袋13袋に札束を詰め込んで販売店に持参し、数えるのに5時間かかったつわものもいる。
そんなウズベキスタンでも、政府はキャッシュレス化に向けた政策を矢継ぎ早に打ち出し始めた。今年5月、ビザやマスターとカードリーダーの規格が同じ銀行カード「フモカード」がつくられ、デジタル通貨の発行まで視野に入れる。
デジタル経済の構築を進める行政組織「NAPM」ファンド部門トップのバホディール・ベコフ(37)は「ブロックチェーン技術を使った電子政府づくりや、デジタル通貨の開発をめざしている」と意気込む。
現金からキャッシュレス、そしてデジタル通貨へ。自国通貨が弱い国の挑戦が続く。【11月8日 GLOBE+】
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円を両替するととんでもない札束になるというのは別にウズベキスタンだけではありません。ベトナム、イラン、インドネシアなどでも。
ほんの数日の印象では、ウズベキスタンで銀行カードやデジタル通貨が流通するというのは、なかなか想像しがたいものがあります。
現在はクレジットカード利用も観光客相手のお店などにかなり限定されていますので。
旅行者にとっては、商品の価格が非常に大きな数字になるというのは非常に厄介なことで、最初は頭の中が混乱します。
まあ、それでも公園のお店でポッポコーンを買おうとするとき、指で「4」を示されれば、それが4万スムではなく4千スムのことだな・・・という程度にはわかるようになりました。
【観光対応については、これから改善すべき問題も多いうような感じ】
実質的な観光はまだ三日しかしていませんが、その大雑把な印象から。
まず、観光資源についてはチムール帝国関連など歴史的な遺産・遺跡が多数存在していますが、イスラム的なものが多いせいもあって、やや単調な印象も。異教徒にとってはイスラムのモスクや神学校というのは、どれもこれも似たような感じに見えてしまいます。(日本を訪れた外国人にとっても、お寺・神社はそんな印象なのかも)
歴史的な遺産・遺跡は多いのですが、自然景観で見るべきものが少ない(あるいは、まだ観光用に開発されていない)のも、印象を単調にします。
料理については、私はあまり食べ物についてあれこれ言う方ではありませんが、他のツアー客からは「なんだか毎日同じようなメニューばっかりで、ワンパターンだ」との不満が多く出ています。
まだ三日経過しただけですから評価は早すぎますが、逆に三日目で「ワンパターン」と言われるあたりには、日本人的感覚とのずれがあるのかも。
ホテル・レストランの対応・設備には、まだまだ改善の余地が大きいようにも。
初日のサマルカンドのホテルでは、シャワーのお湯がほとんど水で、大ブーイングを浴びました。
気温0℃で水シャワーというのは・・・・(私は、気合で洗髪などしましたが)
一部の部屋は暖房も効かなかったようです。
お湯については、翌日夕方に「ガス工事を周辺でやっており、地域一帯でガスが十分に使えなかった」との説明がありました。
問題はトラブルそのものよりも(どこの国でも、日本でもトラブルはあります)、そうした事情は最初から分かっていたはず(分かっているべき)で、説明がなされるまで1日を要したというところでしょう。
ホテル側はお詫びの印として各部屋にワインボトル1本ずつを提供しましたが、そんなことより状況説明を速やかに行うべきでしょう。
二日目に昼食をとったシャフリサブスのレストランでは、ポトフのようなメイン料理がでてくるまでに30分ほども間隔があき、みんな待ちくたびれましたし、予定も遅れることに。
これもガス関連で、ガス供給が十分でなく火力が弱いため、調理に時間がかかっているとか。
ツアー客が2組、合計60名ほどが利用していましたので、大変だというのは想像できますが、受け入れ能力について十分に検討すべきでしょう。
今日三日目のブハラのホテル(11階建ての大きなホテル)でも、観光を終えて3時過ぎという早い時間にホテルに戻ると、部屋のお湯が出ないというトラブルも。客室への給湯のバルブが閉まったような状態にあったようです。
このホテルのエアコン、ものすごい勢いで熱風が吹き出して部屋が暑くなりすぎるため結局使えない・・・ということも。(うまく調整できるのかもしれませんが、私を含めて多くのツアー客が使えませんでした)
まあ、いろんな問題を列挙しましたが、ウズベキスタンが観光に力を入れ始めたのは最近のことですから、これからサービス体制も改善されていくのでしょう。
(「NORIKO学級」が入る建物の前で、ナジロフ・ガニシェル校長(前列右から2人目)と生徒たち。ウズベキスタン東部リシタン 【2月20日 GLOBE+】)
【「NORIKO学級」開校のいきさつ】
5日から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中です。
実質二日目の今日(7日)は、チムール生誕の地シャフリサブスを観光してブハラへ移動。
今回旅行は直行チャーター便利用ということで、観光的にも今後ウズベキスタンを訪問する日本人も増加するとは思いますが、全体的にはまだまだ両国関係は太い繋がりとは言い難い状況です。
そうしたなかで、日本とウズベキスタンの「架け橋」と言えるものに、「歩き方」にも掲載されており、TVでも取り上げられたことがある「NORIKO学級」があります。
*****無料の日本語学校、灯は消さない 創設者の遺志継いだ校長の決意****
首都から車で5時間。中央アジア・ウズベキスタンの小さな町に、日本語を教える無料の私塾がある。20年前の開校以来、ウズベキスタンと日本との架け橋となる人材を多く輩出してきたが、資金的には厳しい運営が続いている。この冬、校長が来日して支援を訴えた。
■ボランティア頼み、綱渡りの運営
「ウズベキスタンでは最近、韓国や中国が経済的な存在感を増していますが、私は日本を応援したいのです。ウズベキスタン人に日本のいいところをもっと知ってほしい」
そう話すのはウズベキスタン東部のリシタンにある日本語学校「NORIKO(ノリコ)学級」の校長、ナジロフ・ガニシェルさん(55)。
昨年の大みそかに来日し、2月下旬まで日本に滞在。学校運営への支援を求めるとともに、各地で出身者の活躍ぶりを見て回った。
リシタンは、首都タシケントから車で約5時間。絹や陶器が有名なフェルガナ盆地にある、人口3万人余りの地方都市だ。
この地にNORIKO学級ができたのは1999年。建設機械大手コマツのエンジニアだった大崎重勝さんが、フェルガナ盆地の他の街にできた自動車工場で重機操作を指導するため、ウズベキスタンと日本を行き来していた。その大崎さんが退職金を元手に、妻の紀子さんと開いた学校だ。学校名は、紀子さんから取った。
ガニシェルさんは工場で運転手や世話係として働いていたが、滞在していた日本人と接しながら独学で日本語を身につけ、開校時には資金も出した。
学校ではこれまで約5000人が学び、100人以上が日本に留学。商社や銀行など日本企業で活躍している卒業生もいる。
大崎さんは体調を崩して2001年に帰国。その後05年に病没した。ガニシェルさんは、大崎さんの遺志を継いで学校を続けることを決めた。
現在、講師はウズベキスタンを観光で訪れる大学生などの日本人ボランティア頼み。
観光シーズンはいいが、寒さが厳しい冬場はほぼいなくなる。講師が学校内の宿泊施設(3食付き)に泊まる際に支払う1泊30米ドルだけが収入だが、支払えない人からは無理には徴収していない。あとはガニシェルさんが材木業で稼いだ持ち出しの資金と有志からの寄付だが、経営は厳しい。
「大阪大学に留学して、将来はダイハツの工場をここに持ってきたい」
記者が昨年12月に学校を訪れると、大阪府豊中市にホームステイしたことのある17歳の男性はそう日本語で夢を語った。
学校では、約15人の生徒が記者を迎えてくれた。ただ、資金難から暖房も付いていなく、室温が10度を下回っていた。
群馬県富岡市に滞在したことがある19歳の女性は「Hey! Say! JUMPの歌を歌うのが好きです」と話した。また、生徒らに知っている日本人を訪ねると、「本田圭佑」「柔道の野村忠宏」「E-girls」などとの名前が上がった。
暖かい季節は150人近くの生徒が通うが、冬場は10分の1に減る。講師もいなくなるため上級生が下級生を教えている。
悩みの暖房だが、以前、石炭ストーブを試すと室内が真っ黒に汚れてしまった。薪は高価で手が出ない。最近まで不安定だった電気が安定供給されるようになり、ガニシェルさんは次の冬からは電気暖房を使いたいと思っている。しかし、変圧器を買う資金はない。
昨年、日本語学校に対して綿花畑などに使われていた近くの国有地の使用許可が出た。3ヘクタールの広さがある。ガニシェルさんは庭園や建築など日本文化を紹介する「日本村」を作りたいという夢があるが、資金のめどが立たない。
ガニシェルさんは今回の来日で、支援を求めて各地を歩いた。富岡市の国際交流協会などから桜と桑の苗木をそれぞれ100本寄贈されたが、企業など大口の支援者は見つかっていない。
ウズベキスタンはいま、変革期を迎えている。1991年の独立以来、カリモフ大統領のもと孤立主義的な外交を展開してきたが、カリモフ氏は16年に死去。後任のミルジョエフ大統領は善隣外交に転換し、経済開放も進めている。
ガニシェルさんは、日本企業にとっていまが進出のチャンスだと強調する。そして、「大崎さんのお陰でみんなの人生が変わりました。NORIKO学級はどうしても残さないといけません」と力を込めた。【2月20日 GLOBE+】
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上記で紹介されている大崎氏とウズベキスタンの関わりが始まった話には、前段があります。
今回のツアーガイドのドストンさん(30歳過ぎぐらいの男性)はリシタンの出身で、彼自身も「NORIKO学級」の生徒でした。その後、文部省の留学生試験にパスして、筑波大で1年学んだそうです。
そのドストンさんのおじいさんがリシタンでは有名な陶器の職人でした。
ソ連崩壊・ウズベキスタン独立時の混乱で、それまでの大きな国営の陶器工場は潰れ、ドストンさんのおじいさんが中心になって、なんとか大勢の陶工たちの生活がなりたつようにあれこれやっていたそうですが、ある展示会でリシタンの焼き物を見た日本大使が九谷焼とコラボすればいいものが生まれると思い、おじいさんと日本大使の交流が始まりました。
その関係でドストンさんのおじいさんは日本に来て九谷焼の技法を学ぶことに。
ちょうどそのときウズベキスタンで工場建設の仕事を請け負っていたコマツは、現地に派遣するエンジニアの日常の面倒をみてくれる人を探していました。
そして、近隣にウズベキスタンから陶工が来日しているのを知り、30名ほどのエンジニアの現地生活の面倒を依頼します。
ドストンさんのおじいさんはこの依頼を受けて、コマツのエンジニアのウズベクでの面倒をみることに。
ドストンさんの家でも大勢のエンジニアが暮らしていたそうです。
そうしたエンジニアの一人が上記記事の大崎氏で、上記のような「NORIKO学級」の話にその後展開したとのこと。
この「NORIKO学級」のおかげで、リシタンの人々の多くが職を得ることができるようになり、暮らしも改善したそうです。
【志ある人】
ガイドのドストンさんと日本の間には、そのような因縁浅からぬものがありますが、ウズベクで発見された150万年前の人骨から始まって、各民族の興亡、更にソ連崩壊後の独立・苦難の時代に至るまでのウズベキスタンの歴史を車中で30分ほど話したあと、「実は私にはある秘密があります」と話始めました。
「私は将来、この国の大統領になりたいと思っています」
独立当時に比べれば改善したウズベクの人々の生活ですが、政治家・上層部にはまだ“ソ連的”な考えが残っているとのこと。
日本留学の経験を経て、そうしたものを一掃して、ウズベキスタンを更に発展させるために必要なものは「教育」だとわかったそうです。
そこでまずは教育面の改革から初めて、やがては大統領になってウズベキスタン全体の改革を進めたいと考えているそうです。
(冗談半分にしても)こういうのを「志」というのでしょう。
日本の若い人たちのなかに、そのような志を持った人がどれほどいるのか・・・?
みんな今ある小さな幸せを守ることだけに気を取られて、大きなトラブルなしに生きることを望んでいるようにも見えます。「志」を語れるひとがどれほどいるでしょうか?
もちろんそれは、日本が豊かになったことによるものですが、少子化、AI技術の革新といった社会の転換点を迎え、非常に懸念されることです。
(レギスタンス広場で催された歓迎セレモニー)
5日から(自宅出発は4日)から中央アジア・ウズベキスタンを旅行中です。
時間がままならない旅行中ということで、世の中の動きも把握できていませんので、簡単に旅行中のことなど。
(旅行のことは、帰国後、旅行記サイトに詳しくアップする予定です)
5日夜に、ウズベキスタン・サマルカンドに到着。
昨日6日は、終日、サマルカンド市内を観光していました。
普段は自己手配の一人旅ですが、今回はチャーター便を利用したツアーに参加しています。
そんな訳で、普段とはずいぶん勝手が違います。
観光から、食事・ホテルまで、すべてお任せですから、気楽と言えば気楽ですが、自分の都合で動くことはできません。やや煩わしいことも。
サマルカンドと言えば、中央アジアからトルコ・エジプトに至る広大な領域を支配したチムール帝国の都ということで、歴史的遺産が多く、その代表は壮麗さで世界的にも有名なレギスタンス広場でしょう。
そうした観光的な話は旅行記サイトに譲るとして、観光初日の最大の印象は「寒かった!」ということ。
気温は夜は0℃ぐらい、日中も昨日は10℃にとどくかどうか・・・・というところ。
流れ落ちる鼻水を拭きながらの観光でしたが、最大の試練は夜の歓迎プログラム。
何が「歓迎」というと、チャーター便で日本から多くのツアー客がやってきたので、その歓迎セレモニーということ。
第一部は、夕方5時からレギスタンス広場の一角(屋外)でウズベキスタンの民族舞踊・音楽を披露してくれるのですが・・・・
寒いのは予想されていたので、着られるだけ着込んで。シャツを2枚、セーターも2枚、その上に薄手のマウンテンパーカーを。荷物になるので、厚手のコートなどは持ってきていません。
まあ、0度近い気温はともかく、一番の問題は風。
丁度風の通り道にあたる場所だったようで、カメラを持つ手も凍てきます。
最初の1,2曲ぐらいはいいとしても、次第に難行苦行、寒中我慢大会の様相に。
「早く終わって!」という感じにも。
ウズベクの人はあまり商売っ気がないようで、周囲の売店にはひざ掛けや羽織るのに使えそうなものを手にした売り子さんなどがいましたが、特にこちらに売りつけにくることもありません。歓迎セレモニーということで制約されているのでしょうか。
「売りにきたら、買ってあげるのに・・・」と思いながら、ひたすら寒風に耐えます。
踊っている方は、体を動かしていますので、まだいいかも。
寒さのせいか、1時間ほどの予定が40分で終了。
ここで問題発生。
このあと1時間後に、第2部のレギスタンス広場の全体を使ったプロジェクション・マッピングがあるのですが、寒さに耐えかねたツアー客の中から「もう私見ない」という声が。
「帰国したら、面倒みなきゃいけない年寄りがいるから、風邪ひくわけにいかないのよ!」といった声も。
予定では、広場を散策したり、買い物したりで時間を潰すことになっていましたが、急きょバスを呼んで、いったんバスに避難。
なんだかんだで、26名のツアー客のうち10名近くがそのままバスに残ることに。
私を含め、その他の客は、再度寒空のもとに突入。第2部へ。
結果的には、第2部の観覧場所は風が殆どなく寒さは耐えられる範囲、ショーも素晴らしく、「観てよかった」ということに。
前夜ホテルのお湯がでなくてシャワーも浴びられなかったというトラブルもあって、寒さが体の芯までこたえた1日でした。