(イラン考古学博物館展示の土器 紀元前4800年頃のもののようですが、約7000年前の土器がこの薄さです。
当時の文化・技術水準の高さが窺えます)
7月30日 イラン旅行7日目
今夜のフライトで帰国します。
とは言っても羽田着が明日の夜。もう乗継便がないので東京で宿泊、鹿児島の自宅に帰るのは明後日昼過ぎになります。これから長い帰国フライトが始まります。
今日はテヘランに戻り、考古学博物館、ガラス&陶器博物館、そしてバザールを回ってきました。
イラン高原の文化開花は非常に古く、紀元前8000年頃には十分に文化の名に値する活動が営まれており、紀元前4000年ぐらいになると巨大な神殿を擁する文化がすでに出現しています。
時期的には、むしろメソポタミアのシュメール文化よりも古く、シュメール人はイラン高原から移動したとの学者報告もあるようです。更には、インダス文明のモヘンジョダロのとの関連も指摘されているとか。
昨日イスファハンからの移動途中、カシャーン郊外にある紀元前4000年頃の遺跡も見てきましたが、イランには国中にそうした遺跡がゴロゴロしているものの、国の保護が行き届かず、国民の多くが盗掘で生計を立てている現実もあるとか。
ペルセポリスに代表されるアケメネス朝の絢爛たるペルシャ文化は突然に出現したものではなく、紀元前8000年頃以来の脈々たる文化の一つとして花開いたものです。
イランの文化はそうした人類最古のレベルに遡る古い歴史を誇る一方で、紀元前3世紀のアレクサンダー、イスラム掲げるアラブ勢力、蒙古のチンギスハンなど度重なる侵略・破壊を受けてもきました。
イランにとってはアレクサンダーはペルセポリスを焼き払うなど、単なる破壊者です。
アラブ・イスラムとの関係は、現在に至るまでイランにとって微妙な問題です。
蒙古勢力は最初は破壊者でしたが、その後、蒙古指導層がイラン文化に傾倒したこともあって、イランにとっては、まだましな存在だったようです。
ガラス&陶器博物館は展示物も優美・繊細ですが、展示室自体がペルセポリスの列柱と神殿をイメージした形になっていたり、真珠を育む大きな貝をイメージしていたりと、なかなかにオシャレです。
展示物の中では、「歩き方」にも紹介されているのが「涙壺」
優美な曲線で首が長いガラス壺ですが、口がラッパのように開いています。
夫が戦地に赴いた妻が、夫の安否を心配し、この壺の口を目にあてて流れる涙を壺にためた・・・・とか。
時期的には18世紀と、展示物のなかでは非常に新しいものです。
愛情あふれる説明ではありますが、もちろん実際に使用した訳でもなく、愛情というよりユーモアを感じる作品です。
そこらの水をいれて、帰宅した夫に愛情をアピールする妻、ウソとはわかっていても否定しずらく苦虫をかみつぶした夫
あるいは、ウソでもいいから涙壺に水を貯めてほしい夫、そんなことに一切興味がない妻
コメディドラマのワンシーンを彷彿とさせる作品です。
日本人として興味があるのが、奈良・正倉院につたわるガラス器と同じ様式の器。
時期的にも5~7世紀ということですから、正倉院と重なります。
当然、ペルシャで作られた品物はシルクロードに乗って交易されましす、先述のような他国の進攻の際にも多くのイラン人が避難民として東西に逃れ、中国などにその文化を伝えます。
そしてシルクロード交易の繁栄を今に伝えるのがテヘランのバザールです。(テヘラン自体はサファヴィー朝に砦が築かれたのが街のはじめということですから、16世紀以降の比較的新しい都市です。ですから、本当を言えば、テヘランの大バザールはシルクロードの繁栄というより、イラン庶民のエネルギッシュな生活を支える場所と言うべきでしょう)
テヘランの大バザールは地図で見ても、東西・南北ともに1.5kmほどはある広さです。
バザールは風のとおりを計算して涼しくなるように作られているとは言え、40℃近い暑さのなかで人ごみのバザール内を歩くのは正直疲れます。(バザール入り口近い付近は非常に涼しく、冷房されているのか、店舗から冷たい空気が流れ出てくるのか・・・よくわかりませんでした。工夫を凝らしたバザールの構造のせい・・・ではないように思えました)
夕方近くまで散策できる時間的余裕はあったのですが、暑い中を歩くのも大変になり、早々に切り上げてホテルへ。しばし休憩後、これまた早々と空港に・・・ということで、このブログを書いています。
ただ、空港のフリーWiFiサイトがペルシャ語でアクセス方法がわかりません。
テヘランはあきらめて、乗換地のタイ・バンコクでアップすることになりそうです。
(イランではgooはアクセスできませんでした。帰国フライトの乗継地バンコクでようやく更新できるようになりました)