今朝の新聞に、江口節さんの詩集『オルガン』が富田砕花賞受賞と。
あれはいい詩集でした。
最近のわけのわからない詩と違って、日頃現代詩になじまない人の心にも届く詩集だった。
その上で、奥行きもある、詩人でないと書けない詩集だった。
前に、この詩集についてちょっとだけ触れてます。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20121023
江口さん良かったですね。おめでとうございます。息子さんへの鎮魂にもなりますね。
次に書くもののために、今日は4年前にお聞きした宮崎翁の録音を聞いている。
その中で「六月社書房」に触れた話があって、そこの社長さんと親しくなったと。そしていろんな出版企画を提供したと。中に福田定一(司馬遼太郎)さんのサラリーマンなんとかというのもあったが誰も知らないでしょうねと仰っている。
わたしネットで調べてみました。すると驚くなかれ、『名言随筆サラリーマン』というのがamazonで24万円で出ていた。
因みに、宮崎翁も「六月社」から『文章の書き方10日間』という本を昭和48年に出しておられる。
「宮水ジュニア将棋教室」本年度後期が今日から始まりました。7回シリーズで、今回は用海公民館が会場です。
時間前の会場。
いつものように早く来て待つ子のために、面白い詰将棋の問題を出しておきます。江戸時代の伊藤宗看の作品。やさしい27手詰めです。
いよいよ開講。
みな緊張の面持ちです。いろんな学校からやって来てますので、ほとんどが初めての顔合わせ。中に「おう!〇〇」と驚いたように声をかける子も。
講座の中で、高級将棋盤駒に触れさせてやりました。
子どものころに本物に触れておくのも意味があるかと。
今日は第一回目だったのでマナーのことなど丁寧に講義して、フリー対局の時間が制限されましたが、みな活き活きとしています。
「今津っ子」(ブログ名)さん来店。
アマチュアの歴史研究家であるが、プロが裸足で逃げるほどの勉強家である。
とにかく歩く。実地に当たるのである。だから顔は真っ黒に日焼けしていて一見妖しげに見えてしまう。まさか学究の人とは思えない。それで損をしておられるきらいがある。
今日話していて驚いたのは、最近『歴史と神戸』誌に論文を載せてもらったと。
え?気がつかなかったなあ、と思ったら、本名の曲江三郎で書いておられたのだ。
この前この人が話題になったのは、芦屋で行われたある音楽会であった。
50年ほども昔に、小林千登勢主役で「芦屋川」というタイトルの連続テレビドラマがあって、誰もが忘れていたその主題歌を発掘したのがこの曲江さんだった。
http://www.youtube.com/watch?v=cSbJwVJYtxE
作詞者が石浜恒夫。その新聞記事を見られたうちのお客さんの逸見憲一さんが、その話を石浜さんの奥様にお知らせして喜ばれるということもあった。その時は入江という名前で新聞記事になったのだった。
『歴史と神戸』(http://www.kobe-sigakukai.com/nc/htdocs/)は大国正美さんが編集を任されておられる。曲江さんは、その大国さんが館長をなさっている、神戸深江の「生活文化資料館」でお知り合いになり原稿を依頼されたのだと。
その原稿は「尼崎にあった藤原邦綱の別荘・寺江亭」(『歴史と神戸』299号)というものだが、これがまた足を使っての踏査の結果の文章だ。日に焼けるのも当然である。
しばらく、曲江さんのぼやき話を聞く。
それは西宮図書館など、西宮市の文化行政についてのご不満。いや、中には深い理解者もあって熱心に努力する職員もおられるが…、という話。
さて、その曲江さんが講師をされる催し物がある。
石の趣味をお持ちの妹尾さんから戴いた石がある。
もう10年以上も前だ。
「この店の名前に因んだものを」と。
上から見るとこうです。
輪の模様が。
ところがこの石の受け台を失っていたのでした。多分kohかsatoが遊んでいて失くしたと思われる。
受け台を失くしたこと、先日個展を開かれたときに妹尾さんにお話ししたら、作ってあげますと言って下さり、今日「出来ました」と持って来て下さった。それがこの写真です。
それほど大きなものではありません。鶏卵ぐらいの大きさ。
妹尾さんの個展の様子はこちらで。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20131019
昨日の三九郎君だが、恐らく会うのは40年ぶりぐらい。大学に通う姿を知っているくらいだ。その後のことは覚えがない。
そして、よく考えたらわたしと10歳違いだ。
今年60歳になるはず。丁度定年なのですね。
ということで、子どものころに彼のことを「三九郎君、ごくろうさん」とか「三九郎、どつくろう」とか言っていじめたという記憶はどうなのだろう?たしかにわたしの心の底には、そう言っていじめたという後ろめたさが残っているのだが、わたしの思い違いかもしれない。
もしわたしが13歳だったとして、彼は3歳。いくらなんでもそれはないだろう。では、わたしの記憶はなんなんだろう?
何年ぶりだろう?いや何十年ぶりだろう。
朝、見知らぬお客様が。サングラスをかけたままだ。
さらに少し体が不自由な様子。
どうやら脳梗塞の後遺症のような。
レモンティーを注文された。
しばらく店内をそれとなく観察しておられる様子。
誰なのだろう?何となく、わたしに用事があるのではないか?といった感じ。
ところが間もなく出て行かれた。どちらに帰られるのかなと見たら、お地蔵さんに入られた。
あ、そうか、お地蔵さんにお参りに来られて休憩に来られたのかと思った。
ところが、それから一時間余りも経っただろうか、また同じ人が現れた。
今度はホットミルクをご注文。
しばらくじっと座ったまま。何となく気になる人だ。
やがて、「もう一杯ホットミルクを」と。
なにか用事があるはず、と思うのだがこちらから聞いてみる雰囲気でもない。
そして、代金を払われて、「sankurouです」とサングラスを外された。
えっ!!!!である。「三ちゃん!」
昔、彼のこといじめたことがある。わたしより5歳ぐらいは年下だった。
何かの時に「三九郎君、ごくろうさん」とか、「三九郎、ドツクロウ」とか言ってその名前をバカにしたことがある。ずっとわたしの胸の底に痛みが残っていたものだ。
ゆっくりしてもらえれば、そのお詫びも言えたのだが、彼は帰って行った。
この「三九郎」という名前だが、彼のお父さんがつけたもの。そのお父さんはなかなか物知りの人だった。なにか深い意味があってつけられた名前だと思うがそんなこと子どもにはわからない。いじめの対象になるだけである。
その後彼は、大阪市大を卒業して、大手の企業に入り、エリートになったと聞いていた。まあ他にも噂は聞いていたが、ここには書かない。
この機会にネットで名前検索してみたら、やはり業績を残したような論文の発表者になっているのが分かった。
さて、店を出て行った彼を、わたしから事情を聞いた家内があわてて自転車を出して後を追って行った。「話したいことがある」と。
もう一度、店に帰ってきてもらって、亡くなられた彼のお父さんやお母さんことなどをゆっくりと話をしたかったのだが…。「またポッとやってくるかもしれません」と帰って行ったと。
しかし、少しは話が出来た様子。
ありし日のお元気な洸人さんです。
http://www.youtube.com/watch?v=kXO16bSqPhs
これは昨年6月に家内の姪をアトリエに案内した時のもの。
これは、やはり昨年10月の、「ギャラリーむかい」でのもの。
http://www.youtube.com/watch?v=iQgF-uos6Ds
菅原先生の葬儀告別式に家内と参列してきました。
北野坂のバプテスト教会です。
洸人先生の縁の深い教会です。
昭和28年秋、放浪の末たどり着かれたのがこの教会の裏の空き地。そこに掘立小屋を建てて住むことに。
間もなく、この教会で洗礼を受け、後にはこの教会で結婚式を挙げておられる。そして今回の葬儀告別式。
式は、洸人さんが生前予め収録されていたお別れのビデオ放映で始まりました。
それは、「わたしの告別式に来て頂きありがとうございます」という懐かしい先生の声で始まりました。
タイトルに、「故 菅原洸人」という先生の自筆文字が!
ご自分の一生を簡略に述べながら約15分、交わりのあった人々への感謝の言葉を訥々と語られました。時にはユーモアを交え、会場からは笑い声が。
最後に「それではみなさん、さようなら、さようなら、さようなら」と。
こんな葬儀は初めてでした。
教会所蔵の先生の絵がたくさん。
会葬者全員で讃美歌を唱和しながら、間に牧師さんのお話があります。それは洸人さんの自伝『四角い太陽』を引きながら、実に温かみのあるお話しでした。牧師さんは昨日、洸人さんの自宅へも赴き、納棺に立ち合われたと。
お孫さんたちの嗚咽の声が哀しかったです。よく泣いておられた。よほどおじいちゃんが好きだったのですね。
遺族を代表してご長男がご挨拶なさいました。
先生によく似ておられる。そして性格までもが似ておられるような誠実で暖かな挨拶だった。
わたしは奥様に、「淋しくなりました。でもいいご葬儀で感動しました。ありがとうございました」とご挨拶しました。
出棺の際に、自発的に何人かの参列者が「また会う日まで また会う日まで…」と讃美歌を歌われました。淋しいだけではない心温まるいい葬儀でした。