あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

村人たちがこれほど大切に守ってきたのだから

2010-09-30 03:23:50 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                    写真:稜線が美しい。夕焼けがもっと空一杯だったらなあ。         

 

 猛暑が終焉を迎えて、秋風がこれほど嬉しい年も珍しいです。だけど「後南朝の舞台巡り」が、とうとう夏を越してしまいました。これではいか~~ん!もっとスピードアップしなければっ。自分でも前回の続きを忘れてしまい、いざ書こうとすると、資料やら、書籍やら、ひっくりかえす、めくる、次々とめくる、めくるめく(関係ない?)、ありさまなのです。

 

<o:p></o:p>

 それというのも、はまればはまるほど、「あれも書かなければ、これも説明しなければ・・・」という気持ちになり、挙句の果てに進まない、というジレンマをかかえることに。そんなときはシンプルに行こう!

 

<o:p></o:p> 

<o:p>写真:上北山村の「北山宮」は一宮をお祀り</o:p>

<o:p></o:p> 

 <o:p></o:p>

事の発端を思い起こしてみると「明治152月に当時の宮内省は『金剛寺のお墓を自天王の墓』と公認し、そのときに『自天王碑』が建立されました。ところが明治45年に行われた改定で、ここのお墓は『河野宮』、つまり弟忠義王のお墓であり、自天王の墓は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>瀧川寺にあるお墓とされた」ことでした。

 

 

<o:p></o:p> 

 宮内省は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の度重なる陳情に対しては「あくまでいったん勅裁をあおいで御治定なったものを変更できないとして却下した。(中略)」とありますが、ではそれ以前の公認を変更したのはなぜ? という疑問を抱きます。

 

写真右:前に清流、後ろは険しい山に抱かれた「瀧川寺」

 

<o:p></o:p> 

 そこにはよほど確かな証拠か、文献か、遺品のたぐいが存在したからこそ、変更されたと見るのが妥当です。それはどんなものだったのでしょうか?

 

 

<o:p></o:p> 

それを知りたいと思って<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>小橡(ことち)にある北山宮(きたやまぐう:兄の自天王をお祀りする神社)とさらにその先にある瀧川寺(りゅうせんじ)に行きました。

 

 

<o:p>写真下:入り口に「宮内庁 北山宮墓」</o:p>

<o:p></o:p> 

 瀧川寺の本堂左横を少しあがったところにある石塔が「北山宮御陵」で、開放的で新しいお墓という感じです。反対に<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の「河野陵」は外からは全く見ることができません。中に入ると積み重なった歴史や人々の思い、といったものが伝わってくるお墓でした。

 

 

<o:p></o:p> 

つまりあいよっこの個人的な印象でいえば、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の伝承のほうに軍配を上げたい気持ちです。「村人たちがこれほど大切に守ってきたのだから、そっとしてあげたら良かったのに・・・」

 

 

<o:p></o:p> 

でも<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の">『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)にはこう書いてあります。「後南朝にまつわる伝承と史実はこれを完全に分析することは不可能な状態になっている」としながらも(「上月記」や「赤松記」によって)「長禄元年の頃、吉野の奥深く、兄弟の後南朝に因む(ちなむ)両宮が潜まれ、伯母峰(おぼみね)を境にして、一宮は北山郷の小瀬に、二宮は川上郷河野谷に居られ、神璽(しんじ:天皇を表す象徴)は一宮によって奉ぜられ、郷民に守護せられ、南朝回復の計をめぐらしておられたことは疑うことのできない事実である」としています。

 

 

写真右:開放的で比較的新しい感じです

 

<o:p></o:p> 

この「北山郷」がどこであったのか、が御陵の問題と深くかかわってくるのです。また三種の神器のひとつである「神璽(しんじ)」がとても重要なものであったことは後でお話します。<o:p></o:p>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい試み=ブロガー募集!

2010-09-20 00:57:02 | 日記

 

                  写真:手前が代表作の「新薬師寺金堂 薬師十二神将伐折羅(バサラ)大将像」

                         

 今日は「万葉文化館」を訪れた日記です。

 

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:明日香村;" Address="明日香村"></st1:MSNCTYST>

 奈良を代表する写真家といえば、入江泰吉氏とともに、特に仏像写真家として有名な小川晴暘(せいよう)・小川光三(こうぞう)父子があげられます。 

<o:p></o:p> 

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:明日香村;" Address="明日香村"></st1:MSNCTYST>

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:明日香村;" Address="明日香村"></st1:MSNCTYST> 

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:明日香村;" Address="明日香村"> 明日香村</st1:MSNCTYST>にある「万葉文化館」では918日から、平城遷都1300年記念特別展 写真展「小川晴暘と奈良 飛鳥園のあゆみー小川光三・金金井杜道・若松保広―」が始まりました。同展は小川晴暘氏の没後50年を記念して企画されました。1026日まで。

 

 

 写真:参加したブロガーの方々も真剣そのもの・・・

 

<o:p></o:p> 

 なにより「そうだったのか」と思ったのは、「88年前に仏像ブームが始まり、そのきっかけとなったのは小川晴暘氏の写真であった」ということです。背景を黒くつぶしてすっきりと立つモノクロの仏像さまは、見る人々に衝撃を与え、そして魅了しました。

  

 

<o:p> 写真:小川晴暘氏が愛用していたカメラを説明</o:p>

 

 「彼以前の仏像写真とは一線を画し、彼以降の仏像写真で影響を受けていないものはおりません」(図録より)と言われるように独創的でした。それはもともと彼が画家を目指したことと関係しています。<o:p></o:p>

「絵の修復、あるいは肖像画の修正などと同じように、写真の修正術にも長けていたが大きな要素です」と学芸員は説明されました。

  

<o:p></o:p>

<o:p></o:p>

 

 

代表作と言われる「新薬師寺金堂 薬師十二神将伐折羅(バサラ)大将像」は「本当に偶然の産物だった、と息子さんの光三氏が言っていた」と、学芸員のトークは続きます。「暗い本堂の中で、当時はフラッシュなどもなく、自然光だけでなんとか撮影したら、かえってインパクトの強い作品になった。撮ろうとして撮れるものでもない」と話していました。

 

<o:p></o:p> 

写真左:興福寺阿修羅像の横姿や後姿も見れます

<o:p> </o:p>

 

 

 さてなぜあいよっこが、特にこの写真展の報告をするのかというと、同館が募集した「ブロガー招待企画」に応募したからです。そして開催前日の内覧会に参加させてもらいました。

 

 

 

<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

  最近ではブロガーを広報に活かす地域も増えている、とも聞きますが、奈良県では初めて見つけました!! ブロガーのはしくれとして、これは応募して自分なりにできることをしなければ・・・。<o:p></o:p>

企画した学芸員さんによると「自分もブログを書いており、その広がり・広報力を活かしたいと思った」とのこと。今回の応募は12名だったそうです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

ともかくも実際に興味ある方々の写真を見ることができて良かったです。ブロガーを活用する、こんな試みがさらに発展していけば嬉しいです。

 

 

写真:万葉文化館を出て夕暮れの橘寺に行って見ました。

右:もうすぐ満月 

左:かろうじて夕焼け雲が入りました

<o:p> </o:p>

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どなたが眠っているのかが大問題に

2010-09-11 02:01:15 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

 

                            写真:川上村 御舟の滝は冬季、氷の滝に            

                     

 

   さてさて道草をしているうちに、本筋を忘れてしまいそうになります。「<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県川上村;" Address="奈良県川上村">奈良県川上村</st1:MSNCTYST>および<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>に残る、後南朝の遺跡と伝説」に戻ります。特に問題となっているのは、「後南朝後胤の親王墓」でした。

 

 

 写真:金剛寺左上にある「河野宮墓」(伝 自天親王陵)に入る際にはきちんと禊を

 

<o:p></o:p> 

ところで天皇さまのお墓についてウィキペディアで調べてみると、宮内庁の区分では、「天皇・皇后・太皇太后(たいこうたいごう:以前皇后だった宮)・皇太后妃のものを『陵(みささぎ・りょう)』(御陵ともいいます)、それ以外の皇太子や親王など皇族のものを『墓(はか・ぼ)』と呼んでいます。

 

<o:p></o:p> 

このほかに、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた「髪歯爪塔」などの「供養塔」、また被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が高い「陵墓参考地」などがあり、一般にこれらを総称して「陵墓(りょうぼ)」といいます。

 

 

写真右:金剛寺左の階段を登ると「河野宮墓」(伝 自天親王陵)

 

<o:p></o:p> 

ちなみに陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は31基であり、天皇、皇后、皇子名を合葬したものを差し引くと合計65基あるようです。やはり圧倒的に奈良県と京都府に多いです。

 

<o:p></o:p> 

しかしその土地の人たちの意識や呼び方は、宮内庁に準じているわけではありません。大切に守ってきた人のお墓は、天皇であろうとなかろうと「帝王さま」であり「御陵」であるのです。ここでは伝わっている呼び名で紹介します。

 

<o:p></o:p> 

<o:p>写真左:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」にある「陵墓参考地」入り口。地元では「忠義王(ただよしおう)墓」と伝わる</o:p>

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

前々回に書いたように、『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)によると、「明治45129日に告示発表された宮内庁の『治定』は、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民にとって晴天の霹靂(せいてんのへきれき)」でありました。

 

<o:p></o:p> 

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民、特に「朝拝式」を550年以上の長きにわたって執り行い、二人の親王をお祀りしてきた筋目衆(すじめしゅう)にとって、2つの墓の改称はとても受け入れられるものではありません。

 

 

写真右:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」は歴史を感じます

 

<o:p></o:p> 

その後の驚天動地(きょうてんどうち:大いに世間を驚かす)※書きながら「えーと、どっちだったかなあ?と調べてみると「驚地動天」でも同じ意味で使えるのだそう。「どうっちでもいいですかあ~?」(どうも横道にそれる)について『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』では次のように書いています。

 

<o:p></o:p> 

 「この告示は、村民とは何の交渉もなしに達せられたので、村長の狼狽、村民の驚愕は名状すべからざるものあり、(中略)・・・・陳情書を携えて上京したが、宮内省は「あくまでいったん勅裁をあおいで御治定なったものを変更できないとして却下した。(中略)」このように何度も大陳情団を結成して上京するのです。

 

<o:p></o:p> 

 両村の過熱・過激ぶりを見かねた宮内省は「明治4557日の御沙汰による妥協案」を提示します。

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

【<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡かわかみ村;" Address="奈良県吉野郡かわかみ村">奈良県吉野郡かわかみ村</st1:MSNCTYST><o:p></o:p>

1金 五千円<o:p></o:p>

右、多年尊秀王ノ為メ祭祀奉修ノ段奇特ニ付下賜事<o:p></o:p>

大正5729日 宮内省】

 

<o:p></o:p> 

<o:p> </o:p>

村民はこの処置に満足したわけではなかったが、ご沙汰書に「尊秀王ノ為メ」とあることによって、せめて心を慰めお墓所改称運動の矛を納め、御下賜金五千円也はそのまま<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>に蓄積せられた。・・・後略」

 

写真:はすの花が満開でした

<o:p></o:p> 

 宮内省はつまり、お金で問題解決をはかろうとしたわけです。そして5千円は村の金庫に納まったようですが、いったいそれは当時どのくらいの額だったのでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さすが結界の島、四国には独特の雰囲気が・・・

2010-09-01 21:51:41 | 日記

 

 

                           写真:その上を渡れそうな七色レインボウ。涼しげでしょう? 

 

  「史上最高の暑さ」ですって! 本当にさもありなん、ですね~。でもブログを書いているおかげというか、夏にこれほど活動的なのは何年来でしょう。先週末には愛媛県の<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="38:愛媛県松山市;" Address="松山市">松山市</st1:MSNCTYST>・<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="38:愛媛県大洲市;" Address="大洲市">大洲市</st1:MSNCTYST>に行ってきました。用事があったためですが、TVで見て行きたかった「岩屋寺(いわやじ)」にも寄ってきました。

 

<o:p></o:p> 

今回もまたまた「日記」です。「後南朝」の本筋を離れていますが、久万(くま)高原の虹、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="38:愛媛県大洲市;" Address="大洲市">大洲市</st1:MSNCTYST>の立ち登る雲をみなさまと共有したくて・・・。

 

 

<o:p></o:p> 

「高速道路土・日・祝日1000円」が決まったとき、「混むのはいやだから、まあどちらかに使うくらい」と思っていましたが、しかし遠距離になるとその差は大きいです。今回ももうすこしゆっくりしたい気持ちはありましたが、しっかり土日で往復しました。夏休み最後の土日、やはり車は多いのですが流れは比較的順調でした。

 

 写真:迫力あります「古岩屋」、紅葉もすばらしいだろうなあ。 

<o:p></o:p> 

 松山ICで降りて国道33号線を南下していると、右手に大きな岩が飛び込んできます。これは四国カルスト自然公園にある国の名勝「古岩屋」で、その高さは100Mにも及びます。左手の国民宿舎「古岩屋荘」には古岩屋温泉があり、リーズナブルな料金でこの景観を楽しめるようです。

 

<o:p></o:p> 

 さらに南下すると右手に、四国八十八ヵ所霊場巡りの第45札所である「岩屋寺」が見えてきます。実はこれまで四国八十八ヵ所巡りはもちろん、該当するお寺に行ったことさえなく、今回が初めてです。なぜかちょうど真ん中から始めてしまいました。

 

 

<o:p>写真左:「カシャ、カシャとうるせーな」と薄目を</o:p>

<o:p>     あけました</o:p>

<o:p></o:p> 

<o:p></o:p> 

 参道下の無人駐車場に300円を入れ、細い参道を上がり始めると、まったく無防備なかっこうでお昼寝中のネコさんがっ! 石枕で気持ちよさそうです。

 

<o:p></o:p>  石段の上から降りてくる人たちのほとんどが白装束で、いろいろな道具を携えていることになんだか感動を覚えます。さすが八十八ヵ所巡りだなあ。

男性の二人連れに「写真を撮ってもいいですか?」とお願いしました。お二人はこの旅で知り合ったそうで、3日間で前半45ヶ所を巡り、ここが最後なのだそうです。いろんな方々が巡っていらっしゃると実感します。意外と若い人が多いことも驚きです。

 

 

<o:p></o:p> 

 岩屋寺は大きな岩石・岩山に包まれるような形で建てられています。左側を「胎蔵界峰(たいぞうかいほう)」、右側を「金剛界峰(こんごうかいほう)」と呼び、本堂には本尊「不動明王」をお祀りしていますが、山全体が本尊でもあります。

 

 

<o:p></o:p> 

 岩屋寺を出て久万高原を降りていると、突然四方が開けた場所で虹に出会いました!! 端から端まで半円状に見える「完全な虹(?)」は本当に久々で、とっても嬉しい。急いで写真を撮りましたが、見え初めてほんの2分間ほどであとかたもなく消えてしまいました。はかない、だけどこの上なくラッキー。 

 

写真:若い人も巡礼姿で

 

<o:p></o:p> 

 次の日は「伊予の小京都」とも呼ばれる<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="38:愛媛県大洲市;" Address="大洲市">大洲市</st1:MSNCTYST>です。城下町なので古くてノスタルジックな街並みが残り、近年再建された「天守閣」は街のシンボルとなっています。

 

<o:p></o:p> 

もうひとつ有名なのが、肱川(ひじかわ)で行われる鵜飼。でも観光乗り合いで見ることはできないようで、1舟借り切りです。(お食事つき・10名・7万円くらい) 

 

<o:p></o:p> 

 盆地の<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="38:愛媛県大洲市;" Address="大洲市">大洲市</st1:MSNCTYST>は、特に霧が立ちやすいことでも有名です。雲海に登る朝日はもちろん、気象条件により濃い霧は肱川に沿って下り、伊予灘に流れ込むことがあります。これが「肱川あらし」とか「肱川おろし」と呼ばれ、カメラマン垂涎の的となっている自然現象なのです。ぜひ一度見たいものです。

 

 

写真:高山地区からは大洲の街が一望できます。

   山の向こうから霧が発生して、やがて驟雨が。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする