あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

南北朝時代に生きた人たちの息遣い

2009-12-22 16:46:27 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

 

             

   写真:今回の写真も紅葉たっぷりですよ。吉野朝宮跡(よしのちょうぐうあと)を下った所にある

      「脳天神社の像」(?名前は不明)も紅葉に包まれて。

 

 

  1392年に後亀山天皇が北朝に三種の神器を譲渡し、南北朝が統一された」という記述から、この時代においても「三種の神器」が、「私こそ最高位、を示すシンボル」として

重要だとわかります。<o:p></o:p>

 

 

写真下:吉野朝宮跡の周囲は険しい急斜面。天皇もこんな紅葉をご覧になったのかな?             

 

ご存知のように三種の神器とは「八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」(広辞苑)で、神様が宿る「依り代(よりしろ)」として古代より大切にされています。

 

 

古事記による天照大御神(あまてらすおおみかみ)の降臨や、日本書紀の神武天皇の東征物語などでも三種の神器は重要な役割を担います。 

つまり「神が宿るモノを持つ人=現人神(あらひとがみ)」という証明が、人心を掴み国を治めるために必要だったのでしょう。

 

  

現代ではもちろん天皇さまは血統に拠り継続され、そして「天皇は人間」とされています。でも長い歴史から見るとほんの少し前まで、勢力・戦略・戦力などで奪い取る時代が続いていたのです。そして千年を超えて、三種の神器という「力を証明するモノの価値」が引き継がれていることも興味深いことです。

  

 

  あいよっこが奈良に住んでもう30年間、でもこれまで「南朝」について関心を持つこと、惹起(じゃっき:引き起こす)されることはありませんでした。メディアなどでも多く語られていないというのが実感で、それはどうしてなのでしょう? 

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独断と偏見によると、<o:p></o:p>

①戦後は一般的に天皇や朝廷に関して語ることがタブーだった。現在でさえ、たとえ純粋に文化的・学級的研究調査でも、政治的・宗教的な色眼鏡で見られがち。

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②現天皇さまは北朝系の子孫である。

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③当時、東大寺・興福寺はじめ吉野川より北部の寺社では「北朝側」についた。                 ・・・etc<o:p></o:p>

みなさまはどうお考えですか? 

  

 写真:上千本にある吉野水分(よしのみくまり)神社は三つの棟が連なった珍しい形

<o:p></o:p> 

  

  奈良ではその他に特殊な要因もあるようです。「奈良県においては古代の研究・文献・情報発信は大変多いけれど、相対的に中世以降では極端に少ないです」と県立図書情報館のIさんは話しました。つまり奈良にはあまりにも古くて興味深い歴史がありすぎて、中世・近代に関心を持つ人が少ない、ということらしいのです。確かに卑弥呼を巡るミステリーや古墳発掘などに対する関心は沸騰中です。そんな事情もあり、Iさんは「南朝をテーマにすると面白い」と薦めてくださいました。

 

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南朝ゆかりの地を巡るのはかなり長帳場になりそうです。最後に皇居があった賀名生は「かのう」「かなう」とも読み、「夢がかなう」との想いが込められているのだそうです。戦乱の時代においても、未来を夢見てイキイキと生きた人たちの舞台を巡り、息遣いやエネルギーを感じ取れると嬉しいな、と願っています。

 

 

写真:後醍醐天皇稜は(あこがれの)京都を向いた北向きです。<o:p></o:p>

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後醍醐天皇って、「GO-DIE-GO(死んでのち進む)」、そして「GOD-EGO(神の利己主義)!?

2009-12-14 21:30:59 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

  

  

                   写真:金峯山寺の国宝「仁王門」は、裏側も美しい。

             今回の写真は紅葉の大放出ですよ! 

 

    かつて日本歴史上、ただ一度だけ2つの朝廷が並立した時代がありました。1333年に鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は公家と武士を統一した、天皇中心の政治「建武の新政」(1334)を始めます。しかしそれに不満を持つ足利尊氏らは反乱を起こして京都を占領し、新しく光明天皇を擁立します。 

 

<o:p></o:p> 

後醍醐天皇はやむなく吉野に逃れ政治を続けようとします。これが「南朝」あるいは「吉野朝廷」とされ、日本全国にその足跡があるのですが、特に奈良県南部の<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;">吉野町</st1:MSNCTYST>はじめ、<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="天川村" AddressList="29:天川村;">天川村</st1:MSNCTYST>~賀名生(あのう:<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="五條市" AddressList="29:奈良県五條市;">五條市</st1:MSNCTYST>)一帯にたくさんの史跡・戦跡、お墓・文化資産などが残っているのです。

 

 

<o:p>写真:もみじの飾りでちょっと優しげな仁王さま。</o:p>

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1340年に後醍醐天皇が52才で死去(病死とされる)した後、1348年に吉野行宮(あんぐう:仮の宮)も陥落し、後村上天皇ら南朝一行は賀名生に逃れます。しかし勢力は衰え、1392年ついに北朝に3種の神器を譲渡し、南朝が消滅する形で南北朝が合一されました(明徳の和解)。

 

 

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この1336年から1392年までの56年間が「南北朝時代」とされています。

参考文献:<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="『吉野町" AddressList="29:『吉野町;">『吉野町</st1:MSNCTYST>名所案内』(桐井雅行、平成元年、<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;">吉野町</st1:MSNCTYST>経済観光課) その他 

 

<o:p></o:p> 

遠い昔の日本史授業を思い出しているところです。南朝について調べていると、この後醍醐天皇という人物、おそらく当時は神様だったでしょうが、の権力志向やリーダーシップ、強い個性が伝わってきます。その一方、多くの優れた和歌も残っており、単に強さだけでなく感情や表現力も豊かだったのでしょう。 

 

写真:後醍醐天皇ゆかりの如意輪寺で。

   「♪まっ赤だな~ まっ赤だな~

    南天の実がまっ赤だな

    もみじのはっぱもまっ赤だな♪」

 

<o:p></o:p> 

そしてお馴染み「ゴダイゴ」というバンドグループまで結成されています! これは関係ないか? でもネット検索してみると、確かに後醍醐天皇に由来しているようで、グループリーダーのミッキー吉野さん(吉野さんも芸名?)は「ゴダイゴという語感が好きだったことと、『GO-DIE-GO:行って、死んで、また生き返る』という意味も良かった」と話しているようです。さらに「醍醐は『如来の真実で最高の教え』であり、『GOD-EGO』と英語で書くと『神の利己主義』となり、日本語と同じ意味になる」そうで、国・言語を超越した面白くてありがたい名前なのですね。

 

それはともかく、後醍醐天皇はおそらく人格的にも人を惹きつける魅力的な人だったのでしょう。だからこそ有能で従順な家来を持ち、吉野はじめ逃れた先では僧兵・村兵を味方につけ、村人たちは誇りに思って大切にかくまったに違いありません。 

 

 <o:p>写真:如意輪寺宝物館の後醍   醐天皇。気品があります。</o:p>

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一般に南朝の歴史観としては、「南朝哀史」「悲劇」「最後の末路」などという暗いイメージでとらわれがちですが、これは後醍醐天皇の「自らの不幸をなげく和歌」が多いことも一因かも知れません。 歌の中ではポロッと本音を出すあたり、とっても人間的な感じで、ますます興味を持ってしまいます。<o:p></o:p>

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本格的な山歩き、初めてだったのに・・・

2009-12-09 17:01:58 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

     

             写真:桧皮葺(ひわだぶき)建築では世界最大の蔵王堂

 

  道の駅でふと目に留まったチラシに釘付けなりました。「南朝の歴史 奥吉野を訪ねて」というイベントで、実施日はその日から1週間後の1123日(祝日)と迫っています。「ダメもとでもいいか」と、その場で主催の<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="黒滝村" AddressList="29:黒滝村;">黒滝村</st1:MSNCTYST>商工会に電話すると「参加できますよ」という嬉しい返事。「よおし、まずは情報収集だ」とうきうきと当日を迎えました。

 

 

<o:p></o:p> 

  朝7時に家を出発し、京奈和道路を経てそのまま直進して<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="高取町" AddressList="29:高取町;">高取町</st1:MSNCTYST>を通過し、<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="大淀町" AddressList="29:大淀町;">大淀町</st1:MSNCTYST>~<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="下市町" AddressList="29:下市町;">下市町</st1:MSNCTYST>に。なんと1時間あまりで到着しました。意外と速いです。<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;">吉野町</st1:MSNCTYST>というと<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="奈良市" AddressList="29:奈良県奈良市;">奈良市</st1:MSNCTYST>内からはとても遠い感じですが、道路の開通もあり、思いのほか近くなったと言えそうです。

 

 

 写真:蔵王堂の入り口にある「黒門」も幻想的でしょう?

 

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「吉野駅周辺には駐車場がないです」(主催者)ということなので、ネットで急ぎ予約した宿泊予定の民宿に車を停めて、下市口駅から近鉄吉野線に乗りました。車窓からは白いモヤに包まれた幻想的な景色が広がっています。

 

  

ちなみに「霧と靄(もや)の違い」は? その日のお天気ニュースで言っていましたが、霧は視界が1km未満のもので、靄は1km10kmのものを呼ぶのだそう。つまり気象現象としては同じもので、程度の差、ということなのですね。 

 

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 さて吉野口駅前で参加登録したあと、一行はさっそく上り坂を歩き始めました。あいよっこもしっかり説明を聞こうと、先頭集団について登り始めたのですが・・・・・。

 

 

 写真:急な坂道を登りながら振り返りつつシャッターを。

    「ああ、ここでもっとゆっくり撮影した~い」

 

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 春には花がとっても有名な桜も、今はさまざまな赤色の紅葉が美しいです。しかも靄の中でうっすらとかすんで素敵です。「下千本」「中千本」と登っていき、まずは金峰山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(ざおうどう)で<st1:MSNCTYST w:st="on" Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;">吉野町</st1:MSNCTYST>観光ボランティアの方から案内を聞きます。

  

 初めて見る国宝の蔵王堂はさすがに威風堂々として圧倒されます。修験道の根本道場であり、木造建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさです。くっきりと晴れてきた青い空と大屋根の桧皮葺から立ち上るゆげが印象的でした。

 

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<o:p>写真上:ほら貝が修験道イメージを高めます。</o:p>

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<o:p>写真右:桜のビューポイント「花矢倉」から。</o:p>

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 途中でも写真を撮りながら登ってきましたが、次第にハアハアと息が切れ、手もブルブルと震えてきます。それでも「もうすぐだから・・・。もうすぐのはず・・・。」とあいよっこはがんばっていました。しか~し、「もうすぐ」はどこまで行ってもこなかったので~す。さらにさらに先は遠かったので~す!!

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次回はなぜ「南朝」なのか、をお話します。<o:p></o:p>

コメント (2)
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