写真:今回の写真も紅葉たっぷりですよ。吉野朝宮跡(よしのちょうぐうあと)を下った所にある
「脳天神社の像」(?名前は不明)も紅葉に包まれて。
「1392年に後亀山天皇が北朝に三種の神器を譲渡し、南北朝が統一された」という記述から、この時代においても「三種の神器」が、「私こそ最高位、を示すシンボル」として
重要だとわかります。<o:p></o:p>
写真下:吉野朝宮跡の周囲は険しい急斜面。天皇もこんな紅葉をご覧になったのかな?
ご存知のように三種の神器とは「八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」(広辞苑)で、神様が宿る「依り代(よりしろ)」として古代より大切にされています。
古事記による天照大御神(あまてらすおおみかみ)の降臨や、日本書紀の神武天皇の東征物語などでも三種の神器は重要な役割を担います。
つまり「神が宿るモノを持つ人=現人神(あらひとがみ)」という証明が、人心を掴み国を治めるために必要だったのでしょう。
現代ではもちろん天皇さまは血統に拠り継続され、そして「天皇は人間」とされています。でも長い歴史から見るとほんの少し前まで、勢力・戦略・戦力などで奪い取る時代が続いていたのです。そして千年を超えて、三種の神器という「力を証明するモノの価値」が引き継がれていることも興味深いことです。
あいよっこが奈良に住んでもう30年間、でもこれまで「南朝」について関心を持つこと、惹起(じゃっき:引き起こす)されることはありませんでした。メディアなどでも多く語られていないというのが実感で、それはどうしてなのでしょう?
<o:p></o:p>
独断と偏見によると、<o:p></o:p>
①戦後は一般的に天皇や朝廷に関して語ることがタブーだった。現在でさえ、たとえ純粋に文化的・学級的研究調査でも、政治的・宗教的な色眼鏡で見られがち。
<o:p></o:p>
②現天皇さまは北朝系の子孫である。
<o:p></o:p>
③当時、東大寺・興福寺はじめ吉野川より北部の寺社では「北朝側」についた。 ・・・etc.<o:p></o:p>
みなさまはどうお考えですか?
写真:上千本にある吉野水分(よしのみくまり)神社は三つの棟が連なった珍しい形
<o:p></o:p>
奈良ではその他に特殊な要因もあるようです。「奈良県においては古代の研究・文献・情報発信は大変多いけれど、相対的に中世以降では極端に少ないです」と県立図書情報館のIさんは話しました。つまり奈良にはあまりにも古くて興味深い歴史がありすぎて、中世・近代に関心を持つ人が少ない、ということらしいのです。確かに卑弥呼を巡るミステリーや古墳発掘などに対する関心は沸騰中です。そんな事情もあり、Iさんは「南朝をテーマにすると面白い」と薦めてくださいました。
<o:p></o:p>
南朝ゆかりの地を巡るのはかなり長帳場になりそうです。最後に皇居があった賀名生は「かのう」「かなう」とも読み、「夢がかなう」との想いが込められているのだそうです。戦乱の時代においても、未来を夢見てイキイキと生きた人たちの舞台を巡り、息遣いやエネルギーを感じ取れると嬉しいな、と願っています。
写真:後醍醐天皇稜は(あこがれの)京都を向いた北向きです。<o:p></o:p>