あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

ニッポンサッカーのチカラ!?

2011-02-03 18:12:00 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

         写真:タムコック運河はハロン湾より景観は素晴らしく、スリルもあります

 

1月の終わりにベトナムハノイ(ハノイ・ハロン湾5日間のツアー)に行きました。ツアーの詳細はまた後で報告しますが、オヤッと思い、嬉しくなったのは「陸のハロン」とも呼ばれる「タムコック運河クルーズ」の小船の上でした。

 

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 クルーズでは鍾乳岩から成る奇岩・巨岩が続く運河を、2時間かけて往復します。たくさんのボートが行き交う中、向こうから「お~!ニッポ~ン?」とアメリカ人風のがっしりしたおじさまが呼びかけてきました。

 

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 「イエ~ス(なぜか英語)」と答えると「イエーイ!!」と満面の笑みにガッツポーズ。「なんで?」と思いつつも手を振って応えました。でも「え?ニッポン人ってそんなに人気あるん?」と腑に落ちない気持ちが残りました。

 

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 帰国後、新聞を見て「もしかしてこれか?」と納得したのです。前日にアジアカップ2011準決勝で、ニッポンが韓国に勝ったようでした。特にアジアにおいてはこれまで「反日感情」の強さを実感し、居心地の悪さを感じたことは少なくありませんが、今回の外国人からの反応は本当に意外でした。

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 これがサッカーのチカラとすると、スポーツのチカラって偉大ですね~。そしてつい先入観から陽気なアメリカ人と思いましたが、あるいはザッケローニ監督のイタリア人だったかな?

 

 

 

写真上:観心寺の「建掛塔(たてかけのとう)」は三重塔の一重部分が、正成の討死で未完のまま。

<o:p>写真右:観心寺にある後村上天皇のお墓「桧尾陵(ひのおりょう)」</o:p>

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さてさて本題に戻り、河内地方の南朝史跡の続きです。

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1339年後醍醐天皇崩御後、即位したのは第六皇子の後村上天皇でした。吉野を逃れた天皇はいったん大和賀名生(あのう)に行宮(仮の皇居)を置きます。一時的には室町幕府の内紛や高師直・師泰兄弟間の反目などを利用して、京を奪還し三種の神器を接収するなどしました。ただ南朝だけで勝利できるような勢力はなかったとされます。

 

 

 

写真:観心寺にも後村上天皇の行在所が置かれました。「後村上天皇御宮跡」

 

 

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このときに活躍したのが、楠木正成の三男(正行・正時の弟)正儀(まさのり)で、「七条大宮の戦い」では足利善詮(よしあきら)を破り、1354年北朝の3人の上皇、光厳・光明・崇光を連行し<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="27:大阪府河内長野市;" Address="河内長野市">河内長野市</st1:MSNCTYST>にある「天野山 金剛寺」に北朝行宮を置きます。

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数ヵ月後に後村上天皇も金剛寺に行宮を移し、南朝として6年間政務を執りました。南朝行宮は「摩尼院」、執務所は「食堂(じきどう)」、北朝3上皇を幽閉したのは「塔頭 観蔵院」と言われます。後村上天皇は最期に住吉大社で崩御され、御陵は観心寺にあります。

 

 

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 金剛寺は北朝と南朝が同じ場所に存在したとして特異な場所なのですが、参拝した日は境内中が工事だらけ。そのうえ寺の隣にある「摩尼院」は日曜・祝祭日のみの開院で、見ることはかないませんでした。懲りずにまた行こうっと。

 

 

写真:金剛寺は工事中であまり撮影ができません。風流な建物とかわいいお地蔵さん。

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楠木一族の帝(みかど)への忠誠心、そして栄枯盛衰

2011-01-25 02:15:24 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                         写真:千早神社の裏手にはスギの巨木が

 

何事も体験するビフォアーとアフターでは、まるで認識や感覚が違ってくるものです。地域・場所についても同じこと。一度行っただけでおっくうさや不安な気持ちは霧消してしまいます。

 

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 22日にまたいそいそと千早赤坂村に向いました。前回より気象条件が良くなり雪もほとんどないため、ノーマルタイヤでも金剛山ロープウエイ駅までスイスイでした。大型定期バス、観光バスがひっきりなしに行き交い、観光客も登山家も多かったです。

 

 

<o:p>写真:入り口から急勾配の階段</o:p>

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ロープウエイに乗って雪景色に感動したい気持ちはやまやまですが、時間がないのでガマン! 今回はロープウエイ駅の手前にある「千早城址」と「千早神社」そして、R310沿いにある威風堂々の観心寺に行きました。

 

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千早城は元弘2年(1332)に楠木正成が築城しました。後世に「大楠公(だいなんこう)」とも称される正成ですが、史実に残るのは元弘元年(1331)に下赤坂城で挙兵した頃から、建武3年(1336)に神戸湊川(みなとがわ)において足利尊氏に負け、討ち死(自害)するまでのわずか6年間です。このとき尊氏は「正成の首を観心寺に送るよう命令した」と伝わり、現在は「楠木正成首塚」に祀られています。

 

  

  写真右:難攻不落の名城とうたわれた千早城も石碑だけが・・。

 

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太平記はご存知のように南北朝時代の戦記物語ですが、史実と虚構が織り交ざっていると言われます。この湊川の戦いでは有名な話があります。正成は「宮軍勢力は圧倒的に劣るので戦略が必要」と後醍醐天皇に進言しますが、聞き入れられず、死を覚悟して戦場に向います。

 

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途中「桜井の宿」でわずか11歳の長男、正行(まさつら)に「お前を河内に帰す」と告げ、「最期まで父上と共に・・・」と懇願する正行に、「もし自分が討ち死にしたあとには、身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党1人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を倒せ」と諭すのです。

 

 

<o:p>写真:観心寺にある「楠木正成首塚」</o:p>

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この湊川での敗戦により、後醍醐天皇は比叡山から、大和の賀名生を経て吉野山金峯山寺に向い、本格的に南北朝時代へと突入していくのです。

 

 

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正行についてはさらに哀悼に満ちたエピソードがあります。正平3年(13486万の幕府軍の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟を河内の四条畷に迎え撃つ時、出陣にあたり吉野の如意輪寺の壁板にやじりで戦士たちの名前を書き連ね、各自の鬢髪(びんぱつ)を切り仏殿に投げ入れたとされます。

 

 

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幕府軍に比して正行の軍は2千とも言われ、死を覚悟した辞世の一首を最期に書き残しました。「返らじと 兼ねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」(あいよっこ注:もう二度とここに帰ることは無いと思うので、亡き人の数に入る名前をここに書き留めておこう)。

 

 

   写真右:吉野の如意輪寺の「正行公埋髪墳」

 

 

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 そして正行は激戦の末に、「敵に討たれるより」と弟と刺し違えて討ち死にします。25歳の若さでした。(一説には23歳とも) 

 

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もし物語だったとしても、なんと11歳で父親との別れがこれほどまでりっぱにできるなんて! 

昔の人たちって現在の精神年齢と比較できないくらいしっかりしていたのですね! 戦国時代という人間の生死を意識せざるを得ない状況では、極限的・本能的に思慮深くなり、人生を悟る?のかもしれません。

 

 

写真:同じく如意輪寺にある「弁内侍(べんないし)至情塚」は「後村上天皇に仕えた女官 弁内侍は、正行討死のあと尼僧となって菩提を弔った」とあります。

 

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千早赤坂村に残る楠木一族の南朝史跡

2011-01-14 11:06:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                     

                          写真:上赤坂城址から金剛山方面を望む

 

 後醍醐天皇が興(おこ)した南朝、それに続く後南朝の勢力や史跡は、奈良県だけでなく京都府や大阪府など広範囲に及んでいます。

 

  

 楠木正成(くすのきまさしげ)は、後醍醐天皇が元弘の乱を起こし、建武の中興へと続く時期、つまり勢力絶頂期に活躍した有名武将です。とはいえ実際にはおよそ6年間の史実しか残っていないようですが・・・。正成が生まれ育ち、本拠としたのが大阪府千早赤坂村で、ここには多くの山城の城跡が残っています。

 

 

 ※元弘の乱:元弘元年(1331)に倒幕の謀(はかりごと)が漏れ、身辺の危機を感じた後醍醐天皇が密かに京都の内裏を出て、南都(東大寺⇒笠置山)に向ったことから始まる。

 

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最も冷え込んだ12日、お天気は良かったので「昼間なら山や峠も大丈夫だろう」と久々写真撮影に出かけました。葛城市や<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>を走る山麓線の「長柄」からR309の水越トンネルを超えると千早赤坂村です。

 

 

<o:p>写真左:落ち葉で埋まる道</o:p>

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 写真下:登り口にある石仏の落ち葉ははらわれています。

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 トンネルを出て、まず一番近い場所にある「上赤坂城址(かみあかさかじょうし)」に向います。田んぼに囲まれた場所に案内板があり、「本丸まで20分」とあります。なにしろ寒いためか昼間でも人っ子ひとりいないので、ちょっと怖いです~。

 

 

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登り口は狭いうえにかなり急坂で、濡れた落ち葉で覆われていました。山城らしく曲がり角や狭い場所(門の跡)があって、人や馬が簡単には通れない仕組みになっているようです。ほどなく頂上に到着!「千畳敷」と書いてありますが、意外に狭い場所です。以前はもっと広かったのかな? 中央には石碑が(寂しく)建っていて、なにより眺めに満足!

  

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次に「一番小さい道の駅」と呼ばれる「千早赤坂 道の駅」の裏側にある「楠木正成誕生の地 石碑」、そして道路を隔てた反対側にある「楠公産湯の井戸」にも寄って見ました。産湯の井戸はりっぱに整備され、まるで露天風呂のようですが、井戸の水は枯れています。(写真下)

 

 

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「道の駅」を通り越し、千早赤坂中学校の裏手にあるのが「下赤坂城址」です。でもここにも石積みの城址などはなく、一本の石碑が立っているだけ。お城は石造りではなく、木造りだったのでしょうか? 案内板にも「・・・にわか造りのためにあえなく落城・・・」とあります。

 

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一番行きたかった千早城址を探し、地図に従って金剛山方面に登り始めましたが、見当たらないばかりか雪が多くなってきました。どうやら千早城址とお寺は金剛山頂付近にあり、通行禁止となっているようです。暖かくなるまでおあずけです。

 

 

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これらの山城について「吉野仙境の歴史」(前園美智雄ら編、2004、文英堂)にはこう書いています。「元弘二年二月には楠木正成が河内の上赤坂城で再挙、八月には千早城に拠った(あいよっこ注:落城により後退した)。

 

 

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<o:p>  写真下:下赤坂城址からはすばらしい棚田の光景が。</o:p>

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 千早城は葛城修験の霊山である金剛山の山腹に所在し、金剛山に営まれた城と言って良い。河内の楠木正成と吉野の護良親王(もりながしんのう)との連携の背後に金剛山寺(転法輪寺:てんぽうりんじ)及び金峯山寺があり、それに属す修験の存在を推測するのはたやすい。

また、金剛山の大和側の山麓である高天(たかま:<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>)を本拠としたらしい高間行秀(たかまゆきひで)ら大和武士の宮方としての転戦も知られる」

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実は楠木正成は後醍醐天<o:p></o:p>皇本人というより、皇子の護良親王とのつながりが強かったようです。そして葛城山・金剛山で隔てられているとはいえ、宮方支援の連携・交流はとても密接に行われていたのですね。<o:p></o:p>

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天皇さまや一族と古来より深いつながりがある

2010-11-10 00:30:44 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                        写真:高原地区の民宿「ログキャビン高原」からの眺め

 

「平城遷都1300年祭」の主要な会場となった「平城宮跡会場」が117日に閉場しました。「平城が閉場です」(ど~でもいいですか?) 予想を大きく超える来場者数からは、あらためて奈良の持つ歴史や文化の吸引力・魅力が感じられます。そして観光関係者の間ではすでに、「ポスト遷都祭」についての議論が始まっているようです。<o:p></o:p>

 

 

 ただ県北部の宿泊数が大きく伸びた反面、県中部・南部はかえって減少するという期待はずれの現象(減少という現象:しつこい!)もあったようです。もともと県北部でも「建物規制が厳しく、ホテル等の経営が難しい」という原因で宿泊キャパが少ないそうですが、簡単に「規制緩和すべき」とも言えないのが難しいところです。<o:p></o:p>

 

 

写真:福源寺で説明する研究者の石本さん。

 

 

しかし中南部にも同じような規制があるのでしょうか? 最近あいよっこは南部を巡ることが多く、何度となく宿泊施設のネット検索をしています。そのたび「特に南部は、日本中のどこより適切でリーズナブルな施設が少ないなあ」とため息をつくのです。施設も宿泊プランも個性的・魅力的ではなく、(女性の)ひとり旅対応もあまりできていないようです。<o:p></o:p>

 

 

訪れる人が少ないのでそうなってしまうのか、あるいはそれほど観光地化を期待しないのか、新しい考え方での経営が進まないのか、参入しにくいのか、理由はわからないです。結局宿泊をあきらめて日帰りすることが多くなります。<o:p></o:p>

 

 

写真:福源寺裏にある旧いお庭

 

 

ポスト遷都祭としては、たくさんの埋蔵金(?)が埋もれている中南部に光をあてることも重要なポイントとなるでしょうが、アクセスと宿泊という基本的な整備がまず必要です。期待しています。<o:p></o:p>

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さて一ヶ月前のことになります。1010日に<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の「森と水の源流館」が主催する「もりみず探検隊:後南朝と木地屋の里を歩く」というイベントがあり、前回(6/10)に続いていそいそと参加しました。そのようすを報告します。(参考資料:森と水の源流館が作成したレジメ)<o:p></o:p>

ところで<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>はもちろん南部ですが、村営の「匠の聚(たくみのむら)コテージ」はネット予約が簡単で、1人宿泊もリーズナブル。木を活かしたコテージは清潔で気持ちが良くときおり利用しています。ただし部屋数はわずかです。

 

 

写真:福源寺に下がる「岡室御所」のちょうちん

 

<o:p></o:p> 

 今回は木地屋(きじや:木地師とも呼ぶ)が多く生活をしていた高原地区に残る後南朝の史跡や伝承を訪ねました。木地屋というのは雑木をお椀や杓子などの日用品に加工していた職人さんたちのことです。プラスティック製品が出回る今に比べ、古来よりとても必要で大事な仕事とされていました。

 

 

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 高原地区には後南朝時代よりはるか以前の9世紀後半に、木地屋の祖「惟喬親王(これたかしんのう)」が隠棲したという伝説も残っています。親王は平安時代前期の文徳天皇(もんとくてんのう)の第一皇子でしたが天皇に即位することはかなわず、出家・隠棲したと伝わります。

 

 

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 親王は「岡室御所(おかむろごしょ)」を営み、家来たちが木地屋として生活した場所が「木地が森(きじがもり)」です。親王はこの地で亡くなり「氏神神社」に葬られたと伝わります。

 

 

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 伝承と文書が残る「惟喬伝説」は、地域の人々により幾世代も大切に守られています。かつて親王さまが住んでいたということは、家来・側近も多数存在し、つまり住民たちは子孫・系統の可能性が高いといえるのでしょう。

 

 

写真:福源寺の内部は色鮮やかで、たくさんの16弁の菊のご紋が。

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常に「吉野・南部地域の人々は、どうして多くの犠牲を払ってまで逃れた天皇一族を守るのだろう」という疑問を抱きながら南朝・後南朝を巡っていますが、これは理由のひとつかもしれません。子孫・系統意識があれば、尊王につながるのは自然なことですから。(続く)<o:p></o:p>

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南帝王(なんておう)さまのお墓で紛争状態に

2010-10-15 01:11:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:『上北山村の;" Address="『上北山村の"> 

             写真:川上村高原の福源寺。数年前までここでも「朝拝式」が行われた

 

 

  『上北山村の</st1:MSNCTYST>歴史』(昭和39年、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>役場発行)には、一ノ宮(北山宮)のお墓について「北山宮の御墓は(滝川寺の)本堂の背後、高い所にある。阿弥陀堂の横から石段によって通じている。明治維新までは『王の墓』とか『南帝王の御墓』と称していたが、日下部守亮などが率先して山緒を明らかにするため願い出、明治二十六年、北山宮御墓として公認せられた。

 

 当時の住職 林水月がその顕彰につとめ、明治四十五年一月二十九日、宮内省告示第1号をもって後亀山天皇玄孫、北山宮御墓と確定せられた」と記述しています。

 

<o:p></o:p> 写真:福源寺外観<o:p> 

 

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  西原にある宝泉寺住職をしていた林水月は、明治37年に滝川寺の住職に転じました。彼こそが地道に北山地域の後南朝史跡や文献の調査を行い、北山宮の御治定に影響を与えた人で、のちに「北山宮御墓御治定雑録」を記述し、功績(自分の?)を伝えています。

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それによると、滝川寺のお墓を宮内省が知ったのは明治22年ですが、このときは「<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>神之谷金剛寺のお墓を北山宮の墓」と定めています。その後滝川寺地域の史跡を知るようになり、26年に「御陵墓傳説地」として保存することになりました。

 

 

写真右:白川渡八幡神社。とてもユーモラスな絵。

    川上村の神社には多く絵が描いてある。

  

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この頃林水月は後南朝の史実の調査結果を持って上京し、宮内大臣田中光顕に「北山宮御墓を北山の地に御治定になるよう」申し出ました。

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<o:p></o:p>                     彼の努力が宮内省を動かし、36年には北山御陵の工事<o:p></o:p>に取り掛かり、その後の御治定となりました。林水月が根本資料としたのは、長禄の変でたった1人生き残ったといわれる上月左近将監が表した「上月記」で、それを基に「北山宮私考」や「南朝遺跡吉野名勝誌」を出版しています。

 

 

<o:p>写真:白川渡八幡神社の裏手にある「後南朝将士墓」</o:p>

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つまり<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>に伝わる「長禄の変において、赤松の残党に殺された自天王の首を取り戻して、『御首載岩』に載せて供養し、その後金剛寺の高台に埋葬した」という伝説は否定され、「北山の滝川寺で殺されて、そこに埋葬された」の説が認められた、ということになります。

 

 

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その後の<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民の驚天動地は以前にも書きましたが、両村はかなりの敵対関係が続いたようです。林水月は「策謀の中心人物」とされ、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民の風当たりが厳しかったので、滝川寺住職の職を退きました。<o:p></o:p>

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ひとつ天皇のお墓の問題で両村の間で紛争が起こりかねない状況だったようです。資料を読んでいると、人々の天皇様に対する篤い信仰心や郷土愛、昔から伝わっているものを守る心意気などが立ち登ってくるようです。熱いドラマがあったのですね。 

 

写真:上北山村滝川寺

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