写真は2015/12/2~3 鳥取県「三徳山三仏寺~不動院岩屋堂」
写真上:「岩屋堂」は南北朝~室町時代初期建立と言われる。
天然岩屋の間口7m、奥行き10m、高さ13m
先週鳥取県に行き、国宝「三徳山三仏寺投入堂(みとくさん・さんぶつじ・なげいれどう)」や「不動院・岩屋堂(ふどういん・いわやどう)」などを見ました。だけどお天気も曇りがちで時刻も遅く、また投入堂には2人以上でないと奥の院には入れません。なので遙拝所からの写真です。
見ながら思ったのは「天然の岩屋があったら木造でも保存できるなあ」「石仏だったらわざわざ岩屋(石のドーム)は必要ないし・・・」ということです。
石窟庵は硬い花崗岩でできており、そのなかにある高さ3.26mの石仏も花崗岩製で、保存性はかなり(必要以上に?)高いです。だけど運搬機も道具も未熟な古代において、こうした建造は大変な労力・技術が必要だったでしょう。なにしろ丸彫り石仏を彫るにはその何倍もの原石が必要らしいですし・・・。
さ~て、前回ブログで紹介した「本来石窟庵のドームには東側に向けて窓が開けられていて、スリットとなっていた。仏像の方向が冬至の日の出の方向とほぼ同じで、日の光によって仏像が浮かび上がるようになっていた。今はふさがれてしまい、電気の光で浮かびあがらせている」(「慶州で2000年を歩く 新羅から現代への旅」武井一、桐書房、2003)という説明ですが、「なにか変だな?」と感じたかた、手を挙げて~~!
なぜって「発見されたときにはドームの全面部分は破壊され、元の形をとどめていなかった」とされているのですから。なぜスリットがあったとか、そこから冬至の太陽光が入り、仏像を照らした、とかがわかるのでしょうねえ???ガイドブックに書いてある説明にも疑問が感じられます。
もしそうであるならなおさら「冬至(あるいは夏至?)に太陽に照らされる仏像」を公開し、その写真・動画撮影を広く伝えるべきでしょう。すると「洋の東西で同じ考え方があった証拠」としてさらに有名になるばかりか学問的にも有意義なことです。なぜ隠してしまったのか理解に苦しみます。
「もっとまじかで石仏を拝見し、美しい姿を感じたかったのに・・・」という単純な感情から始まったこのシリーズですが、調べていくうちに大きく3点の不思議や疑問に発展しました。
⑴「石窟庵の石仏・ドームなどは説明書通りの文化遺産なのだろうか?」
⑵「韓国の当局や専門家はどう対処し、どう考えているのだろう?またそれを追求するジャーナリズムはその後どうしたの?」
⑶「世界遺産として認定したユネスコはどうかかわり、どのような補修や調査を行ったのだろう?」ということです。
⑴に関してはこれまでかなり詳しく書いてきました。個人的には疑問を感じざるを得ませんし、「なぜセメントをそれほど守る必要があるのだろう?」と思うほどに「もしかして石仏はセメント製なの?」(なあ~~んて暴論!?)
⑵では韓国・朴大統領が連呼する「正しい歴史認識」を思い出します。「正しい歴史認識」とは「できるだけ公平な立場で、事実に即した歴史をふまえて物事を判断する」といった意味だとあいよっこは「認識」します。でもそれは自分も正しく実行しているから、あなたもお願いね、という前提が必要でしょう。時に応じて「ころころと主張や態度を変えたり」(軍艦島などの世界遺産登録に際した時のことです)、自国の世界遺産に関して口封じを行なったりするなどが許されることなのでしょうか?
またこのブログ内でも触れていますが、「日本統治下で日本人は文化遺産を盗もうとした。また補修に失敗した」「我が国に古い寺院が少ないのは、豊臣秀吉軍が破壊したから」「仏国寺は加藤清正によって焼かれた」などのエピソードが韓国の教科書に載っていて、こどもたちの教育に使われている、とも聞くのですが、それは正しい歴史認識なのでしょうか?(これに関して正確なことはわかりません)
⑶に関しては最近動きが見られますが、ここでは省略します。
思いもよらず辛辣なことになってしまいました。韓国に期待することは、あいよっこの推論や感想が事実とは異なっていることを、ぜひぜひ明らかにしてほしいということなのです。
***このシリーズを終わります。読んで頂いてありがとう***
写真:岩屋堂の隣にも岩屋が広がっている
写真:投入堂遙拝所から望む
写真:三徳山三仏寺「水琴窟」の音色がまるでシンフォニー!
なんども水を入れて聞いてしまった。
写真:お地蔵さんたち、なぜかみんな丸顔!
写真:ローカル線「若桜(わかさ)鉄道」にはSLも走る
レトロ感いっぱいの「稲葉船岡駅」
写真:人気の「隼駅」には退役した「ブルートレイン・はやぶさ号」を展示
写真:SLファンはもちろん、スズキの大型バイク「ハヤブサ」由縁の
バイクファンにとってもメッカ