あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

ヒロシマ原爆の被爆者・「お祈りをしなさい」と子どもに数珠を渡す母

2013-05-26 23:50:21 | 自分史の発行

 

  母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

  

(8) 【ヒロシマ原爆による被爆者の救護】

 

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昭和2086日に本部より「緊急救護」の連絡があり、軍医、衛生兵、および15名の看護婦生による救護班が編成され、岡山発午後9時ごろの夜行臨時列車でヒロシマに向けて発ちました。

 

 

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 夜行列車は進んだり停まったりのノロノロ運転で、機能していた最寄り駅(どのあたりだったのかわかりません)に到着したのは7日夜明け頃です。

 

 

イラスト:広島記念公園の原爆ドーム

 

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そこからは線路をつたって歩き、目的地とされた広島市内の学校に向かいました。あたり一面焼け野原が広がり、とても地面が熱くなっていましたが、その一方で奇妙なほど静かです。

 

 

 

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 突然目に入ってきたのは、赤ちゃんを背負い、手にバケツを持ったまま硬直している母親の姿。そして建物にくっきりと刻印されたような人間の影。そして市内を流れる大田川には、折り重なるように死体が浮かんでいました。これは飲み水を求めて川に入った人が多かったから、と後で知りました。

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 野宿を一泊したあと、救護所での活動が始まりました。

 

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(9)【「お祈りをしなさい」と話す母親】

                               写真:学徒動員の頃、友人たちと

 

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<o:p></o:p>救護隊は数日後に宇品にある臨時野戦病院に移りました。そこにも日を追うごとに火傷の重傷者が運び込まれ、床や外にまで患者さんが並び、足の踏み場もない状態となりました。負傷した人たちは、救護する男性に「兵隊さん」、女性に「看護婦さん」と呼びかけ、「手当てをしてください」「水をください」などと助けを求め、手を合わせました。

 

 

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大火傷を負ったことで、腕の動脈から血が噴き出している男性がいましたが、布でしっかりと縛って止血するしかなす術がなく、目の前で亡くなってしまいました。 

また母子共に傷ついた母親が子どもに数珠を渡し、「お祈りをしなさい」と話している姿が印象に残っています。

 

 

 

写真:看護婦生徒 冬の服装

 

 

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どこを探しても満足な医薬品はなく、充分な医療行為もできず、手当てといえば、患部にチンク油やオリーブ油を塗ることだけでした。真夏の炎天下で「水をください」と手を差し伸べたまま、蛆虫がいっぱいわいたまま、大勢の人たちが亡くなっていきました。

 

 

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現在でも、たとえばアフリカの戦争や難民のニュースのなかで、たくさんの人間を穴の中で焼いている光景が流れたりすると、当時を思い出してしまいます。

 

           写真:広島平和記念資料館「被爆死した伸一ちゃんの三輪車」

 

***続く***

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自分自身の身体を張り、存在をかけて戦う 橋下さん

2013-05-19 19:22:53 | 「慰安婦問題」を超えて

                    写真は「桜の残る福井県・(上写真以外はすべて永平寺)」

              撮影日:2013/4/15

           写真:勝山町 川に沿った桜の並木と雪の残る山々

   

        今日は日記です  

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ついに世界的有名人になったのかな?大阪市長の橋下徹氏です。連日、日本国内ばかりか、海外での報道も熱を帯びているようす。しかし多くの人々になにかを感じさせて、考えさせ、それぞれがおのおのの立場や視点から意見を表現し、表出し、議論されること、このことこそ民主主義社会では大切なことです。

 

 

 

 

写真:永平寺

 

 それが可能な日本という社会は好きですし、あらゆる方向からの風を受けて立つ橋下さんの「強い信念、打たれ強さ」にはいつもながら感心しています。でも発言内容に対してちょっと言わせて~。

 

 

 

 そもそもの発端は韓国から日本に向けられる「戦時中の慰安婦政策に対して謝れ」「日本は正しい歴史認識を」という要求です。あいよっこは以前、このブログで韓国に関して書いたことがあり、そこから「韓国はいったい、どんな歴史認識がどう違うと言いたいのだろう?」という疑問をずっと持っています。

 

 

 

                 写真:永平寺でお勤めの準備をする僧侶

 

 

 本来ならばマスメディアが取材し、伝え、問題提起をするべきだと思いますが、知る限りでは報道されず、結局なにもわかりません。そこでこの春には「考え方を知りたいし、そうだついでに桜も見たい」と韓国の桜ツアーに参加しました。それに関してはまた旅ブログで報告します。

 

 

ところで今回の橋下氏発言に対しても大メディアは、従来のような「微妙な問題だからはっきり言うな」「タブーに触れるな」「橋下氏のここが変、おかしい」という、自分を安全圏に置いての批評・批難が目立ちます。「選挙を控えた話題つくり」「しょせん自分がメディアに取上げられたいから」などとしたり顔で批評するコメンテーターのあなた、「もしあなただったら、同じことができるのですか?」

 

 

 写真:永平寺の外に広がる寂光苑

 

 騒動の核心には「戦時中の慰安婦制度」があり、「(良し悪しは別にして)世界各国の軍隊で女性の活用が必要だった」という発言が物議をかもしています。あいよっこはちょっと視点を変えて、「動物のオス同士がなぜ戦うのか」を生物学的、遺伝子保存の法則的に見ると、当然ながら「自分の強さ・優秀さを示して、メスを獲得し、自分の遺伝子を後世に伝えるため」でしょう。

 

 

 

 時代を経て、ヒトの場合は戦いの目的も、その手段や方法も大きく様変わりしているのはご存知のとおりです。「女性が直接戦利品になった」地域や、時代(今でも?)もあったそうですが、近代的戦争においては「領土獲得、利権拡大」を主として、「うっとおしいヤツをやっつける、自分の力を誇示する」などもありそうです。

 

 

                           写真:寂光苑の「玲瓏の滝」

                 

 

 こうした目的が「侵略なのか、そうでないのか」は安倍首相の考えや発言とも関係してくる問題です。また自分自身の身体能力、知恵を駆使して、存在をかけて戦った時代ははるか遠くに去り、かくして現代ではガンダム仕様のモビルスーツに身を固め、飛びモノ(鉄砲です)で勝負し、果ては人工知能や核爆弾を利用してボタンひとつの戦争となってきました。

 

 

 そんな辛くて緊張する戦争場面において「兵士の士気を高めるために、また性的エネルギーをコントロールするために女性が必要」というのは、最初の戦いの目的から考えると、女性にとって良いことなどなにもありません。つまり男性側だけの一方的視点ということです。

 

 

 

 橋下氏は「男性性優位な日本社会のものの見方、常識的考え」を率直に発言しただけなのです(???)。しかしさすがにアメリカ社会は他民族国家であり、ヨーロッパの長い人権意識の伝統も備えています。不都合な真実に対しては、徹底的に理屈や合理的言い訳で武装できるのです。その点では「国際的な感覚が足らなかった」のでしょうね~。

 

 

写真:とっても絢爛豪華な「法堂(はつどう)!狛犬と思ったのは「阿吽の白獅子」です。

 

 でもあいよっこは基本的に、「自分自身の身体を張って、存在をかけて戦う」橋下さんを応援しています。ツイッターを使っていろいろな人たちとつながり、自分に必要な意見や戦略を参考にして、考えが間違っていたら「素直に訂正して謝る」のも柔軟性があっていいですね~。

 

 

 がんばれ~! そしてもっともっと戦ってね~! 

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岡山市の大空襲で同期生2名が戦死

2013-05-12 20:37:08 | 自分史の発行

 

 

   1ヶ月前から「福島第一原子力発電所地下の貯水槽から汚染水が漏れている」というニュースが続いています。漏洩による地下水の汚染は確認されていない、とはいえ貯水タンクはすでに7000tを超えているといわれ、今後は増え続ける汚染水処理も大問題となってきます。

 

 

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 またいくら地上の除染を行っても、結局は最終的に地下水とか海水に流れていくわけで、海産物や海鳥などを媒介した食物連鎖が回っていくことでしょう。微量だし問題はない、という楽観論を信じたい気持ちもありますが、結局「よくわからない」のが実体で、どこにも確信などはないのです。

 

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写真:前列には軍刀を脇にした軍医どの

 

 

 

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 また5/11には「警察庁と海上保安庁が合同で福島第一原発へのテロを想定した訓練を行った」ニュースもありました。地球を共有する私たちの中でそんなテロが起こるとは想定したくないですが、もはや「性善説」ははるか遠くにありて思うものに・・・。

 

 

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だけどいくら訓練しても「遠隔操作犯」などには全く無意味であることを、認識すべきでしょう。<o:p></o:p>

 一方で安部総理は3日、「トルコに原発を輸出する調印」と報じられました。結局経済には勝てない、ということ? エネルギーを生み出す一方で、手に負えない、取り返しがつかない魔物である「パンドラの箱」を閉じることは相当難しそうです。

 

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 母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ 』<o:p></o:p>

のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

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(7) 【岡山市の大空襲で同期生2名が戦死】

 

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 昭和20年春、姫路市陸軍病院での四ヶ月間の実地研修を終え、岡山の看護婦生徒一期生26は、岡山陸軍病院(現国立岡山病院)に実習生として配属されました。<o:p></o:p>

それからすぐ629日に、死者1700人、負傷者6000人以上といわれる岡山大空襲が勃発しました。真夜中の午前2時頃に、140機を超えるB29爆撃機が襲来し、激しい爆撃が始まりました。警戒警報がなかったために被害が大きくなったといわれます。

 

 

                写真:看護婦生徒として配属された

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爆撃に使われた焼夷弾(しょういだん)には、2種類の爆弾が含まれ、最初に「親爆弾」が炸裂した後、48個の「子爆弾」に分裂し、それぞれが火の帯を引いて落ちてきます。地面に達するとさらに爆発して、周囲に火のついた油脂を撒き散らしました。B29による爆撃は、火災により人や街を破壊するもので、岡山旧市街地の七割以上を焼き尽くしました。

 

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私は仲間と一緒に、寄宿地となっていた岡山市の妙善寺から裏山の防空壕をめざして必死に駆け上がりました。爆撃機の爆音が響き、あちらこちらに火の手があがるなか、真っ暗で足元は見えず、気ばかり焦って思うように登れません。何度も転んだり、前の人をつかんで一緒にずり落ちたりしながら「神様助けてください」「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と必死に祈りました。

 

 

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しかし逃げ遅れた二期生の仲間がふたり、不幸にも焼夷弾の直撃を受けて即死状態となってしまいました。<o:p></o:p>

仲間が戦死してしまった、自分はたまたま生きのびた、という生死の境に置かれた人間の精神状態を考えるまもなく、次の試練が待っていました。

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***続く***

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写真:本人提供<o:p></o:p>

イラスト:石原まゆみ氏提供<o:p></o:p>

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『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ 』

2013-05-10 23:30:02 | 自分史の発行

 

                       

                         写真:「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」

 

  昨年末に実母の自分史である「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」を発行しました。(B5版、32ページ、著者:石原淑子、イラスト:石原まゆみ、発行:朱鷺色工房)

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 母は第二次世界大戦の末期、昭和204月に陸軍看護婦生徒に志願しましたが、直後に岡山大空襲に遭遇し同期生2人をB29の爆撃で失いました。さらに86日には本部から「緊急救護要請」が来て、ヒロシマ原爆による被爆者の救護活動に携わりました。

 

 

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 かねてよりあいよっこには、「母が体験した戦争と被爆者救護のようすを書き残して伝えたい」という気持ちがあり、当初は平成15年に母の話をもとに小冊子にまとめたものでした。

 

 

写真:学徒動員の頃、まだ幼さの残るはちまき姿

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 それを自分史として発行したのは、東日本大震災に続いて起きた「福島第一原子力発電所の水素爆発」に拠るところが大きいです。

 

 

 

 

  原発爆発により広い地域に放射能汚染が広がり、未だに多くの住民が避難されていますが、廃炉にするにも長い年月が必要だし、汚染地域が除染されるのも天文学的年月と費用がかかるといわれ、元の生活に戻れる目処はたっていません。 

 

 

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写真上と下:苦労を共にした看護婦生徒の仲間たち<o:p></o:p>

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  敗戦当時日本は世界に向けて「ノーモア・ヒロシマ&ナガサキ! ノーモア・ヒバクシャ!」と叫んできたのに、「夢のエネルギーを平和利用」とされた原発でも「被爆」という同じ状況が起きているのがとても残念だし、同時に怒りや疑問も湧き上がってきます。

 

 

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 みなさまにも母の体験を知っていただけたらと願い、自分史のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

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(6) 【学徒動員で紡績工場へ、そして看護婦生徒に】

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 第二次世界大戦が激しさを増すなか、昭和1911月ごろから学徒動員が始まりました。人手不足、物資不足は激しく、学生・生徒たちも貴重な労働力となったのです。<o:p></o:p>

今、全員ハチマキ姿の写真を見ると、まだまだみんな幼さの残る女子生徒たちで痛々しい感じもします。もちろん当時の自分たちは意気盛んでしたが・・・。

 

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実業学校生徒だった私は、学徒動員でまず井原市にある鳥越紡績工場で生糸を紡ぐ仕事に就きました。生糸からは「軽くて強い」と戦闘機のパラシュート生地が作られると聞きました。<o:p></o:p>

食べ物が足りない状況だったこともあり、蚕のサナギの佃煮などが給食に出たことを思い出します。味は覚えていませんが、不思議と嫌いだとか、食べられなかったという思いはなく、それほど食料不足は深刻だったのです。

 

 

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しかし戦況は次第にせっぱつまった雰囲気になりました。実は敗戦色が濃くなってくるのですが、私たちにわかるはずはありません。時代や周囲の人々の雰囲気に押されるように、陸軍看護婦生徒に志願しました。<o:p></o:p>

これには母親が強く反対しましたが、「お国のためにじっとしていられない」と押し切りました。思えば若くて多感な17歳だったのです。<o:p></o:p>

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***続く***

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 写真:本人提供<o:p></o:p>

 イラスト:石原まゆみ氏提供

 

 

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 イラスト:解禁となった「初めてのパーマ」をかけたら・・・! <o:p></o:p>

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