母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ 』のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。
(∫8) 【ヒロシマ原爆による被爆者の救護】
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昭和20年8月6日に本部より「緊急救護」の連絡があり、軍医、衛生兵、および15名の看護婦生による救護班が編成され、岡山発午後9時ごろの夜行臨時列車でヒロシマに向けて発ちました。
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夜行列車は進んだり停まったりのノロノロ運転で、機能していた最寄り駅(どのあたりだったのかわかりません)に到着したのは7日夜明け頃です。
イラスト:広島記念公園の原爆ドーム
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そこからは線路をつたって歩き、目的地とされた広島市内の学校に向かいました。あたり一面焼け野原が広がり、とても地面が熱くなっていましたが、その一方で奇妙なほど静かです。
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突然目に入ってきたのは、赤ちゃんを背負い、手にバケツを持ったまま硬直している母親の姿。そして建物にくっきりと刻印されたような人間の影。そして市内を流れる大田川には、折り重なるように死体が浮かんでいました。これは飲み水を求めて川に入った人が多かったから、と後で知りました。
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野宿を一泊したあと、救護所での活動が始まりました。
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(∫9)【「お祈りをしなさい」と話す母親】
写真:学徒動員の頃、友人たちと
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<o:p></o:p>救護隊は数日後に宇品にある臨時野戦病院に移りました。そこにも日を追うごとに火傷の重傷者が運び込まれ、床や外にまで患者さんが並び、足の踏み場もない状態となりました。負傷した人たちは、救護する男性に「兵隊さん」、女性に「看護婦さん」と呼びかけ、「手当てをしてください」「水をください」などと助けを求め、手を合わせました。
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大火傷を負ったことで、腕の動脈から血が噴き出している男性がいましたが、布でしっかりと縛って止血するしかなす術がなく、目の前で亡くなってしまいました。
また母子共に傷ついた母親が子どもに数珠を渡し、「お祈りをしなさい」と話している姿が印象に残っています。
写真:看護婦生徒 冬の服装
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どこを探しても満足な医薬品はなく、充分な医療行為もできず、手当てといえば、患部にチンク油やオリーブ油を塗ることだけでした。真夏の炎天下で「水をください」と手を差し伸べたまま、蛆虫がいっぱいわいたまま、大勢の人たちが亡くなっていきました。
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現在でも、たとえばアフリカの戦争や難民のニュースのなかで、たくさんの人間を穴の中で焼いている光景が流れたりすると、当時を思い出してしまいます。
写真:広島平和記念資料館「被爆死した伸一ちゃんの三輪車」
***続く***
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