あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

「得意になったとき何をするか」で、その人の本性がわかる

2010-01-31 22:09:05 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

南北朝時代における最大のスターはいうまでもなく後醍醐天皇です。歴史年表をたどっていくだけでも、その個性的な人物像と人並みはずれた自己顕示欲・エネルギーが伝わってくるのですから。<o:p></o:p>

 

  

吉野朝に残る遺跡・エピソードは当然ながら尊敬の念に溢れたものですが、史実(『太平記』など)に照らしてみるとまた違う面も現れてくるようです。いずれにしても歴史に残る行動力あふれる天皇であり、その生涯は波乱に満ちたものでした。<o:p></o:p>

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写真:吉水神社には吉野朝廷の菊の御紋

 

 

後醍醐天皇の人生において、南朝と関連ある後半部分を簡単に紹介します。

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1318 後醍醐天皇即位 31歳という年齢は、当時異例

    の遅い壮年即位

1331 正中の変・元弘の変(乱) 2度にわたる

    鎌倉幕府倒幕計画が失敗<o:p></o:p>

1332 隠岐の島に配流(はいる)<o:p></o:p>

1333 隠岐の島を脱出<o:p></o:p>

      伯耆(鳥取県)の船上山(せんじょうさん)に立てこもり、諸国武士に綸旨(りんし:天皇の命令)を発し挙兵を呼びかける<o:p></o:p>

1334 鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」を始める<o:p></o:p>

1335 足利尊氏が挙兵し、京都を占領<o:p></o:p>

1336 吉野に逃れて南朝を開き、政治権力の維持を

    図る<o:p></o:p>

1339 52歳で死去 <o:p> </o:p> 

 

写真:書院内にはたくさんの御物・宝物があります。

   後醍醐天皇の「石硯」「御嶽丸笙」

 

 

 

吉水神社HP「花と哀史」では、「延元489日に夏風邪をこじらせて病床に伏し肺炎を併発された。吉水宗信公の悲願御祈祷や多数の人々の願いもむなしく、16日に崩御された」としています。発病からわずか一週間、そして南朝を開いてわずか3年後でした。それまでの行動力や情熱に比べると、ちょっとあっけない最後という感じがぬぐえないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真上:吉野朝宮跡。吉水院は手狭になったので、蔵王堂の西側「実城寺(じつじょうじ:消失)」を行宮としました。

 

 

一方、歴史小説家の永井路子さんは、『南朝と北朝』(人物群像・日本の歴史第7巻、学研、1995)で、興味深い考察をされています。要約すると、「後醍醐天皇は天性豪気で我欲も強く、歴代天皇の中でもまれに見る個性的な存在であった。頭が良く行動的で、新しい制度や組織を作ることは得意であったが、(その後に必要な)人心の掌握、統治能力、配慮などは足りなかった」<o:p></o:p>

 

 

さらに「18人の后妃を持ち、36人の子女をもうけたが、中でも阿野廉子(あののれんし)を寵愛するあまり、政治への容喙(ようかい:横からくちばしをいれること)を許した」と対談で話しています。最後に「・・・自分が得意になったとき、何をやるか、ということでその人の本性が、もういやになるくらいはっきりする。・・・(略)後醍醐はとにかく政治が大好きなんです。明けても暮れても新政、新政ではりきっていますね」と指摘しているところは興味深いお話です。(続く)<o:p></o:p>

 

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反対する者あらば、私を殺してから反対されよ!

2010-01-20 00:31:04 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

  ネットで「南朝」「南北朝」「後醍醐天皇」などを検索すると、数は少ないですが熱狂的なファンが存在しているようです。吉野地域の史跡めぐりや、全国にあるゆかりの神社などをめぐり、活動・交流しているグループもあるらしいです。

 

 

<o:p>写真:左の書院は日本最古の「書院造り」</o:p>

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思いが遂げられず悲劇に終わった物語に涙し、楠木正成・新田義貞・北畠親房・北畠顕家(あきいえ)といった天皇の忠臣に深く共感する人たちは多いのでしょう。文学では谷崎潤一郎「吉野葛」や小松左京「本邦東西朝縁起覚書」などが南朝・後南朝をとりあげたものとして有名です。

 

 

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さて次の日はイベントで歩き知識を得た道を再び訪れて、南朝・後醍醐天皇にゆかりのある場所を巡り、じっくりと写真を撮りました。南朝の足跡をなるべく時系列に沿って紹介します。 

 

 

<o:p>写真:書院の中にある「南朝皇居」は小さいお部屋</o:p>

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1336年に後醍醐天皇が最初に吉野行宮(あんぐう:仮の宮)を開いたのは現在の吉水(よしみず)神社です。実はその前に西吉野の賀名生(あのう)にある郷士・堀信増の屋敷に立ち寄っていて、ここは南朝最後の後村上天皇が仮御所を構えたところでもあります。つまり京都から逃げて、(最短距離ではなく)西側から入ってきたということかな。

 

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吉水神社のHP「花と哀史」で、宮司・佐藤さんはこのときのお話を次のようにされています(文章を略しています)。 吉野神社はもと金峯山寺の僧坊「吉水院(きっすいいん)」で、吉水院宗信という豪僧が率先して天皇を擁護し、人々を説得したのです。

 

 

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天皇の味方をすることで一帯が戦乱に巻き込まれること、幕府側につくほうが勝つ可能性が高いことなどで吉野近隣の人々は大反対をし、大勢が「後醍醐天皇に加担しないことにしよう」と決まりかけたとき、蔵王堂の段上から大音響が響きました。宗信が全身烈火の如くの形相で叫んだのです。

 

 

<o:p>写真:吉水神社の後醍醐天皇はこんなお顔</o:p>

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「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならない。しかし今損得勘定で逃げたら、その恥は千載に残る。この吉野は勤皇なのだから筋を通すべきだ!反対する者あらば、私を殺してから反対されよ」。

 

 

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一同はあまりの凄さに沈黙し「そうだ。神武天皇が熊野からの行幸にもこの吉野地域をどれだけ頼りにされたことか。大海人皇子(おおあまのおうじ)にも祖先は味方した。後醍醐天皇に御味方しよう」と宗信の説得に応じたのです。「南朝の本拠地が吉野にあるのも宗信がいたから」といわれるゆえんです。

 

 

 

 

 

 

 

写真:吉水神社の木製狛犬?とっても個性的な風貌です<o:p></o:p>

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山歩きは楽しく、全身運動は快感!

2010-01-11 01:36:01 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

 さてさて話を本筋に戻しましょう。昨年1123日に参加した「南朝の歴史 奥吉野を訪ねて」(主催:<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:黒滝村;" Address="黒滝村">黒滝村</st1:MSNCTYST>商工会)というイベントの顛末、127日付けブログの続きです。

 

 

<o:p>写真:後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮の紅葉。</o:p>

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金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂を過ぎて、花矢倉の展望台で少し休憩し、吉野水分神社に到着。吉野駅からの登り道もこのあたりに来るとさらにきつくなって来ます。

 

 

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「先頭集団について説明をよく聞きながら歩こう」という意気込みとはうらはらに、次第に最後尾の集団にいることが多くなりました。歩くのもきついけれど、眼下に広がる景色や神社を撮りたいのです。

 

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金峯神社に至る急坂の参道を息もたえだえに昇り、ついに奥千本の最終地点に。ここでトイレ休憩の後、源の義経隠れ塔も通過して、さらにさらに歩いていきます。さすがにある疑問が脳裏をよぎりました! 「このイベントって吉野の遺跡巡りではないの?チラシに書いてあったバスに乗るのはいったいどこ?」 

 

 

写真:七曲坂を上り詰めたところは戦いの跡。お地蔵さんになぜかオーブが。

 

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後方で噂話などしながら歩いている男性グループの人に聞きました。「どこまで歩くのですか?」「この先<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:黒滝村;" Address="黒滝村">黒滝村</st1:MSNCTYST>まで、まだ5kmくらいはありますよ」「・・・・・(ボーゼン・汗)」「ちょっとしんどそうだな、と思っていました。良かったら車に乗ってください」

 

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あ、そうかそのために車が最後尾からゆっくりついて来ているのね。ついにお言葉に甘えて車のお世話になることに・・・。「やれやれ、助かった~!」男性グループは主催の方々だったのです。初めての山歩きが期せずして、かなり本格的なものとなりました。

 

 

<o:p>写真:義経隠れ塔</o:p>

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災いも転じて福。車の中で、主催者の人とゆっくりお話することができました。この催しは毎年実施していて、40人ほどの参加者はほとんどリピーターということです。どうりでみなさん服装・装備は完備しているし、歩くスピードも速いことったら!新顔のあいよっこは普通のツアーに参加するいでたちのうえに、最後尾でハアハア歩き、きっと要注意人物だったことでしょう。

 

<o:p>写真:隠れ塔近くの展望台から</o:p>

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「なぜ<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:黒滝村;" Address="黒滝村">黒滝村</st1:MSNCTYST>が奥吉野歩きを実施するのですか?南朝の遺跡があるのですか?」と聞くと、「黒滝には『御吉野』という地名が残り、いわれはあるはずですが、残念ながら証拠がありません。主だった観光資源もなく、通り過ぎられてしまうので、周辺観光地を巡るイベントをしています」「でも水は美味しいですよ。水道蛇口からペットボトルに入れて持ち帰ってください」「今の悩みの種は森林のシカ害。増えすぎて山が荒れています」などと教えてもらいました。

 

 

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この山歩き、昼食のいのしい汁は珍しくておいしいし、「御吉野の湯」温泉で入浴できることも人気なのです。なぜ温泉がついているのかを、汗ぐっしょりになって納得、確かにありがたかったです。

 

 

写真:金峯神社でも堂内にオーブが。(見えにくいですが)

 

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「南朝の歴史 奥吉野を訪ねて」というタイトルに、てっきり「吉野にある南朝の歴史文化遺跡を巡るのだろう」と思ってしまいました。人間ってチラシ一枚見ても、自分に都合良く解釈してしまうものですね。ともあれ、勘違いのおかげで初めての山歩きは楽しく、久々の全身運動は快感でした。そして南朝に関する情報も得ることができました。<o:p></o:p>

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2010年、新しい年の始まりです!

2010-01-01 20:42:03 | 日記

                                  

   おおみそかあたりから急に冷え込んで、かえってお正月らしい雰囲気になりました。みなさま良いお正月をお迎えのことでしょう。年が替わっていくのをきっかけに、気持ちや環境も変化していくことは、当たり前のようでいて本当に先人の知恵なんだなあと感じているこのごろです。ですが、自分自身の年が重なることはちょっと嫌だよ~。

 

 

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新しい年の始まりに、みなさまはどんな決心をし、期待を持ちましたか?良い年になりますようお祈りいたします。

 

 

<o:p> 写真:薄い雲に反射して満月が何倍も大きく見える!</o:p>

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 年越しに、あいよっこは例年どおり薬師寺と唐招提寺にお参りしました。今年はかなり寒いこともあり早めに行ったら、薬師寺の人出はとっても少なかったです。

 

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 東塔は現在修理調査中のため、足場で覆われちょっと寂しいですが、おかげでいつもはあまり注目しない西塔に視線が集中します。おりからの満月と一緒に撮って見ました。雲の流れが速いです。

 

 

<o:p>  写真右:待つ人で溢れるお写経道場</o:p>

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金堂ではいつもは大勢の人々の後ろ頭ばかりで、チラ見しかできない国宝「吉祥天女画像」を一人っきりで拝見しました。といっても、幸せを招く吉祥天女さまは小さくて(20×30cmくらい?)、古いので色調もぼんやり、さらにガラスの額縁に入っているのでくっきりと見えるわけではないです。

 

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 お坊さん、出会う人たち、縁起物売り場の人たちから「こんばんは」「良いお参りで」などと声をかけて頂き、なんだかありがたい気持ちが倍増しましたよ。

 

 

<o:p> 写真:玄奘さまもひっそりと</o:p>

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 境内より人が溢れていたのは「お写経道場」です。机は満員のため、後方や場内でたくさんの人、家族連れや子どもたちも、がゆったりと待っていました。年越し写経は二年分のご利益があるのかもしれません。そして写経した人は、除夜の鐘の鐘付き優先権がいただけます。

 

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 次の唐招提寺までは歩いて10分ほど。1130頃には入場制限をしているようで、入り口前に列ができていましたが、ほどなく入れました。やはり薬師寺とは一変して、暗くておごそかな雰囲気です。

 

 

 写真:千手観音さまもすっきりしたお顔です

 

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 10年間に及ぶ大修理の後の新年ですが、意外なほど人は多くないようです。修理された金堂にお化粧直しされた御仏さまたちがいらっしゃいました。すっきりさっぱりされて見慣れた以前の姿とはなんだか違う印象ですが、これからまた長い年月を重ねていかれるのでしょう。

 

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それでは今年もよろしくお願いします。<o:p></o:p>

コメント (2)
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