あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

楠木一族の帝(みかど)への忠誠心、そして栄枯盛衰

2011-01-25 02:15:24 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                         写真:千早神社の裏手にはスギの巨木が

 

何事も体験するビフォアーとアフターでは、まるで認識や感覚が違ってくるものです。地域・場所についても同じこと。一度行っただけでおっくうさや不安な気持ちは霧消してしまいます。

 

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 22日にまたいそいそと千早赤坂村に向いました。前回より気象条件が良くなり雪もほとんどないため、ノーマルタイヤでも金剛山ロープウエイ駅までスイスイでした。大型定期バス、観光バスがひっきりなしに行き交い、観光客も登山家も多かったです。

 

 

<o:p>写真:入り口から急勾配の階段</o:p>

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ロープウエイに乗って雪景色に感動したい気持ちはやまやまですが、時間がないのでガマン! 今回はロープウエイ駅の手前にある「千早城址」と「千早神社」そして、R310沿いにある威風堂々の観心寺に行きました。

 

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千早城は元弘2年(1332)に楠木正成が築城しました。後世に「大楠公(だいなんこう)」とも称される正成ですが、史実に残るのは元弘元年(1331)に下赤坂城で挙兵した頃から、建武3年(1336)に神戸湊川(みなとがわ)において足利尊氏に負け、討ち死(自害)するまでのわずか6年間です。このとき尊氏は「正成の首を観心寺に送るよう命令した」と伝わり、現在は「楠木正成首塚」に祀られています。

 

  

  写真右:難攻不落の名城とうたわれた千早城も石碑だけが・・。

 

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太平記はご存知のように南北朝時代の戦記物語ですが、史実と虚構が織り交ざっていると言われます。この湊川の戦いでは有名な話があります。正成は「宮軍勢力は圧倒的に劣るので戦略が必要」と後醍醐天皇に進言しますが、聞き入れられず、死を覚悟して戦場に向います。

 

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途中「桜井の宿」でわずか11歳の長男、正行(まさつら)に「お前を河内に帰す」と告げ、「最期まで父上と共に・・・」と懇願する正行に、「もし自分が討ち死にしたあとには、身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党1人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を倒せ」と諭すのです。

 

 

<o:p>写真:観心寺にある「楠木正成首塚」</o:p>

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この湊川での敗戦により、後醍醐天皇は比叡山から、大和の賀名生を経て吉野山金峯山寺に向い、本格的に南北朝時代へと突入していくのです。

 

 

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正行についてはさらに哀悼に満ちたエピソードがあります。正平3年(13486万の幕府軍の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟を河内の四条畷に迎え撃つ時、出陣にあたり吉野の如意輪寺の壁板にやじりで戦士たちの名前を書き連ね、各自の鬢髪(びんぱつ)を切り仏殿に投げ入れたとされます。

 

 

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幕府軍に比して正行の軍は2千とも言われ、死を覚悟した辞世の一首を最期に書き残しました。「返らじと 兼ねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」(あいよっこ注:もう二度とここに帰ることは無いと思うので、亡き人の数に入る名前をここに書き留めておこう)。

 

 

   写真右:吉野の如意輪寺の「正行公埋髪墳」

 

 

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 そして正行は激戦の末に、「敵に討たれるより」と弟と刺し違えて討ち死にします。25歳の若さでした。(一説には23歳とも) 

 

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もし物語だったとしても、なんと11歳で父親との別れがこれほどまでりっぱにできるなんて! 

昔の人たちって現在の精神年齢と比較できないくらいしっかりしていたのですね! 戦国時代という人間の生死を意識せざるを得ない状況では、極限的・本能的に思慮深くなり、人生を悟る?のかもしれません。

 

 

写真:同じく如意輪寺にある「弁内侍(べんないし)至情塚」は「後村上天皇に仕えた女官 弁内侍は、正行討死のあと尼僧となって菩提を弔った」とあります。

 

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千早赤坂村に残る楠木一族の南朝史跡

2011-01-14 11:06:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                     

                          写真:上赤坂城址から金剛山方面を望む

 

 後醍醐天皇が興(おこ)した南朝、それに続く後南朝の勢力や史跡は、奈良県だけでなく京都府や大阪府など広範囲に及んでいます。

 

  

 楠木正成(くすのきまさしげ)は、後醍醐天皇が元弘の乱を起こし、建武の中興へと続く時期、つまり勢力絶頂期に活躍した有名武将です。とはいえ実際にはおよそ6年間の史実しか残っていないようですが・・・。正成が生まれ育ち、本拠としたのが大阪府千早赤坂村で、ここには多くの山城の城跡が残っています。

 

 

 ※元弘の乱:元弘元年(1331)に倒幕の謀(はかりごと)が漏れ、身辺の危機を感じた後醍醐天皇が密かに京都の内裏を出て、南都(東大寺⇒笠置山)に向ったことから始まる。

 

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最も冷え込んだ12日、お天気は良かったので「昼間なら山や峠も大丈夫だろう」と久々写真撮影に出かけました。葛城市や<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>を走る山麓線の「長柄」からR309の水越トンネルを超えると千早赤坂村です。

 

 

<o:p>写真左:落ち葉で埋まる道</o:p>

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 写真下:登り口にある石仏の落ち葉ははらわれています。

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 トンネルを出て、まず一番近い場所にある「上赤坂城址(かみあかさかじょうし)」に向います。田んぼに囲まれた場所に案内板があり、「本丸まで20分」とあります。なにしろ寒いためか昼間でも人っ子ひとりいないので、ちょっと怖いです~。

 

 

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登り口は狭いうえにかなり急坂で、濡れた落ち葉で覆われていました。山城らしく曲がり角や狭い場所(門の跡)があって、人や馬が簡単には通れない仕組みになっているようです。ほどなく頂上に到着!「千畳敷」と書いてありますが、意外に狭い場所です。以前はもっと広かったのかな? 中央には石碑が(寂しく)建っていて、なにより眺めに満足!

  

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次に「一番小さい道の駅」と呼ばれる「千早赤坂 道の駅」の裏側にある「楠木正成誕生の地 石碑」、そして道路を隔てた反対側にある「楠公産湯の井戸」にも寄って見ました。産湯の井戸はりっぱに整備され、まるで露天風呂のようですが、井戸の水は枯れています。(写真下)

 

 

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「道の駅」を通り越し、千早赤坂中学校の裏手にあるのが「下赤坂城址」です。でもここにも石積みの城址などはなく、一本の石碑が立っているだけ。お城は石造りではなく、木造りだったのでしょうか? 案内板にも「・・・にわか造りのためにあえなく落城・・・」とあります。

 

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一番行きたかった千早城址を探し、地図に従って金剛山方面に登り始めましたが、見当たらないばかりか雪が多くなってきました。どうやら千早城址とお寺は金剛山頂付近にあり、通行禁止となっているようです。暖かくなるまでおあずけです。

 

 

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これらの山城について「吉野仙境の歴史」(前園美智雄ら編、2004、文英堂)にはこう書いています。「元弘二年二月には楠木正成が河内の上赤坂城で再挙、八月には千早城に拠った(あいよっこ注:落城により後退した)。

 

 

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<o:p>  写真下:下赤坂城址からはすばらしい棚田の光景が。</o:p>

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 千早城は葛城修験の霊山である金剛山の山腹に所在し、金剛山に営まれた城と言って良い。河内の楠木正成と吉野の護良親王(もりながしんのう)との連携の背後に金剛山寺(転法輪寺:てんぽうりんじ)及び金峯山寺があり、それに属す修験の存在を推測するのはたやすい。

また、金剛山の大和側の山麓である高天(たかま:<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>)を本拠としたらしい高間行秀(たかまゆきひで)ら大和武士の宮方としての転戦も知られる」

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実は楠木正成は後醍醐天<o:p></o:p>皇本人というより、皇子の護良親王とのつながりが強かったようです。そして葛城山・金剛山で隔てられているとはいえ、宮方支援の連携・交流はとても密接に行われていたのですね。<o:p></o:p>

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悠久の歴史と凍れるリズム:薬師寺東塔

2011-01-05 13:23:27 | 日記

 

            写真:5人一組で撞く除夜の鐘。おあとにあつあつ焼餅をいただきます。

  

 

 クリスマス・年末と近年になく大寒波がやってきて、(あいよっこ世代にとっては?)それらしい雰囲気のあるお正月となりました。みなさま良い新年をお迎えのことでしょう。2011年もよろしくお願い致します。

 

 

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 年越しにはいつものように薬師寺と唐招提寺にお参りしました。寒さのためか、紅白歌合戦が終わっていないためか、人出が少ないようです。今年はなんといっても薬師寺東塔の年越し写真を撮りたいです。これからほぼ10年間もの間、補修解体工事で見ることができなくなってしまいますから。

 

 

写真:正面とはまた違う美しさ

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  昨年のおおみそかは満月が見え隠れする夜空でしたが、東塔は調査のために足場で覆われていました。(おぼろ満月と西塔の写真はこちらを)でも今年はお天気もいまいちだし、お月様とのタイミングがまったく合いません。年に一度のチャンスって難しいものですね~。

 

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 ところで東塔に関して「解体修理の覆屋は今秋(2010)から来年3月(2011)にかけて建設され、修理が終わるのは平成30年末の予定。東塔は7年ほどみられなくなる・・・」(奈良新聞2010/4/5)という報道は見聞きしましたが、その後の報道がありません。

 

 

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 記事によれば現在は覆屋があるはずですが、「ない」ということは予定が変わってきた、ということなのでしょうか? あるいは取替えが必要とされる心柱などの木材の調達が難しいのでしょうか?(そんな話を聞いたような・・・)

 

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 東塔の美しさが人智を超えたものであること、奇跡的に残っている木造建築物であることはご存知の通りですが、永年の風雪で「垂木(たるき:屋根板を支える)」「高欄(棚)」などの木造部をはじめ、塔頂部の相輪(そうりん:銅製の飾り)などにも多くのゆがみや痛みが見つかっています。

 

 

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相輪が傾いていることはかなり昔から写真家の間では話題となっていましたが、当初はおよそ80個の風鐸(風鈴)があったらしいことは驚きです。風に風鈴が音を立てて舞いあがっていた風景を想像します。また今回の調査で軸部に人名など複数の落書き(おそらく製造者なのでしょう)が発見されましたが、会心の作であればなおさら、どこかに自分を残したいものなのですね。

 

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しかし戦国時代においてはシンボルである高い塔は真っ先に焼かれてしまうものだし、第二次戦争時などにはまた別の危機(解体されて材料として供出)があったことでしょうが、それらを乗り越えて残されていることに、本当にありがたく感謝の気持ちでいっぱいになります。<o:p></o:p>

 

 

 

写真右:薬師寺の守り神「休ヶ岡八幡宮」の社殿は1603年と旧く、八幡三神像は国宝に指定されています。

座小屋(歴史文化遺産)での奉納太鼓は今年初めてなのかな?

 

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