写真撮影日:2016/6/26
写真上:熊野磨崖仏の「大日如来像」
高さ6.8m 宝冠がなく、印も結んでいないので「薬師如来」では?
との説もあるが、「大日如来」の古い形とされる。
さて「菅尾石仏も鬼が一夜で作った」という「鬼伝説」はこうです。(あいよっこまとめ)
時代は平安時代の終わりごろ。ここ豊後宇対瀬(ぶんごうたいぜ)の鬼は作物を荒らしたり、あばれたりする乱暴な鬼でした。挙句の果てには「里の娘を嫁に欲しい」と言い出すしまつ。
里人たちは鬼と相談(!?)して「堂山の崖に石仏を五体、一番鶏が鳴くまでに彫り上げたら嫁を世話しよう」と決めました。鬼は喜び、さっそく彫り始めました。(※いつの世も、また鬼にとっても、お嫁さんは嬉しいものなのね~)
「一夜では絶対無理だろう」と思ったのに、鬼はすさまじい形相でノミを走らせ、ついには最後の「多聞天像」に取り掛かっていました。里人は一計を案じて、鶏の鳴きまね名人を呼び寄せ、屋根の上でバッチョロ傘をバタバタと打ち合わせて「コケコッコー」と鳴いてもらいました。
鳴き声につられて本物の鶏たちも鳴きはじめ、里人たちはこの時とばかりに竹槍や鎌を打ち鳴らし、ときの声を上げて山に迫りました。鬼は驚き慌てふためいて裏山に逃げ、二度と里に現れませんでした。多聞天像が半彫りになっているのはこのためなのです。
こうした鬼伝説は日本各地に残りますが、その地域に合わせてリメイク?してあるのが面白いです。やはり当時も流行とかあったのでしょうか?同じように国東半島の沖にある「姫島」伝わる古事記の「国産み神話」なども各地にありますね~。
国東半島の仏教文化は奈良県・吉野山に始まった山岳宗教・修験道の影響を強く受けているし、また「熊野磨崖仏」およびここの「五所大権現」も紀州熊野権現を勧請(かんじょう:分霊のこと)したといわれ、いずれも「権現様」が信仰の中心となっています。
この「権現様」というのは修験道の創始者とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野山における修行や祈りにおいて出現させた、神とも仏とも違う日本独自の尊格・尊像とされています。ちなみに吉野山・金峯山寺の本尊は「蔵王権現」です。
現在のようにマスメディアなどない時代においても、遠い地域の信仰の形や伝説などが各地に広まっているのは、おそらく人づて・口コミの力だったのでしょう。「こんな信仰の対象が欲しい」とか「あの伝説・ストーリーがここにもあったらいいのに・・・」などの素朴な気持ちが表れているようで興味はつきません。
それにしても「廃仏毀釈」の影響を受けなかった地域性とか、住民の信仰心やお守りの気持ちなどで、本家より貴重な文化が育っていることもあるようです。また一言で「石仏」と言ってもさまざまな神様、仏様、権現様、お地蔵さま、などなどいろいろってことです。石仏さまには保存性が高く古い形が残りやすい、地域で人々が大事に守っている、多種多彩で親しみがあること、など魅力がいっぱいです。
なにより多く野外にあるのでいつでも拝見でき、さらに「写真撮影が可能」なのがとっても嬉しいです。国宝臼杵石仏公園では、ガイドさんにおそるおそる「撮影してもいいですか?」と聞くと「いいですよ~、思う思う存分撮ってください」との返事にウキウキしてしまいました。
「大分県の石仏めぐり」を終わります。読んでくださってありがとう。
「熊野磨崖仏」の自然石の乱積石段。
「鬼が一夜で築いた」99段の石段だけど、数えにくそう~
「文殊仙寺」にある「役の行者像」 細面でやさしく女性っぽい雰囲気
写真上:国東半島にある「比枝神社」で もしかしてケータイ中?
写真下:「比枝神社」ではあじさいが満開!