あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

「実は最初の妊娠が・・・」

2013-06-06 19:06:45 | 自分史の発行

   母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~』<o:p></o:p>

のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

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(11) 【初めてのパーマ】

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今思えば面白く楽しいこともありました。終戦後しばらくして、禁止されていたパーマが解禁になりました。嬉しくてさっそく仲間3人とつれだって初めてパーマをかけに行きました。

 

 

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 美容室ではたくさんのコードを使ってパーマをかけるのですが、あちこちひっぱられて痛いうえに、時間もずいぶんとかかって熱く、「パーマをかけて美しくなるのも大変」と思ったものです。でもパーマでクルクルになった髪の毛には大満足でした。

 

 

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この頃「パーマネントに火がついて、あっというまにハゲチャビン♪」というお囃子が流行ったのを思い出します。大ブームになっていたのでしょう。

 

 

 

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(12)【初めてのチョコレート】

 

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さてそのクルクルの頭で美容室を出て歩いていると、あろうことか、外国人兵士から「看護婦さん!(たぶん)」という風に声をかけられました。

 

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なにしろそれまで外国人兵士に対しては、「鬼畜米英」とか「捕まったら殺される」と教わってきたので、みんな一目散に逃げました。でもくだんの兵士はなにやら大声で「チョコレート」とか叫びながら、なにかを投げ、その場を立ち去りました

 

 

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 おそるおそる見ると、確かにチョコレートのようです。ともかく甘いものには飢えていましたし、チョコレートも初めてです。どうするか相談するまでもなく、急いで拾って持ち帰りみんなで食べました。大変美味しかったのは言うまでもありません♪♪♪ <o:p></o:p>

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(13 略)<o:p></o:p>

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(14) 【実は最初の妊娠が・・・】

 

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 実は長女の前の、最初の妊娠はいわゆる「ぶどうご(※胞状奇胎…胎盤や卵膜を作る絨毛細胞が異常に増殖し、子宮内部がブドウの粒のようになる)」でした。当時は「妊娠中に転んだから」と思っていましたが「ぶどうご」の原因は、「主として卵子の異常により受精時から始まる」とのことで、転んだことは関係ないようです。

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 一方で「被爆によって胞状奇胎が増える」という事例報告もあり、私の場合も今思えば放射能被爆の可能性が疑われます。

 

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当時「放射能被爆で妊娠・出産に異常があるかもしれない」ことを多くの人が話してはいましたが、自分に関しては全くというくらい心配していなかったのです。やはり物事をあまり深く考えない、どこか楽天的な性格なのだろうと思います。幸いにも長女に続き、次女、三女と3回のお産は正常で、本当に神様に感謝しています。

 

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***母の自分史紹介を終ります***<o:p></o:p>

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そしてついに終戦

2013-06-02 14:58:23 | 自分史の発行

母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~』<o:p></o:p>

のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

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(∫10) 【そしてついに終戦】

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救護の現場では、いわゆる玉音放送(※天皇陛下がラジオで「終戦」を宣言された放送)を聞いた人は少ないと思います。私たちは飛行機からばら撒かれたビラで終戦を知りました。 <o:p></o:p>

周囲には油を採るためのヒマワリ畑があったのですが、ビラを見たある将校は軍刀を振り回し、狂ったように花をなぎ倒していました。私は「戦争が終わって本当に良かった」とほっとする想いでしたが、それまで勝利を信じていた人たちにとって、敗戦は受け入れがたいことだったのでしょう。

 

 

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大きな被害を出した爆弾は直後から「ピカドン」と呼ばれ、当時「ピカドンのせいでもうここには何十年も住めない、もう木が生えない。変な子どもが産まれる」などの噂が立ちました。「爆弾の正体が原爆だった」という事実を知ったのはかなり後のことです。

 

 

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救護隊の中では私を含め、高熱が出たり、お腹の調子が悪くなり、下痢などの症状になったりする人が多くいました。でも不思議なくらい「自分自身も被爆した」という意識がなかったのは、自分は救護する立場だったこと、そしてどこか楽天的だったのかなとも思います。

私たちはおよそ2週間の救護活動のあと岡山に帰りました。

 

 

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(∫11) 【看護婦生徒を辞めて郷里に戻る】

 

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 岡山に戻ってもたくさんの戦傷者や被爆者、そしてご遺体が岡山陸軍病院に運ばれてきました。霊安室では研修を兼ねた解剖助手の仕事がありました。人手が足りないので、即効的に看護の学問を学ぶことが必要だったのです。

 

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 まだ初心者のうえにもともと怖がりだった私は、解剖を正視することができず、ずっと眼をつぶってうつむいていました。「おい、そこ、ちゃんと見ろ! これはどこか?」という軍医の声に固まって答えられず、「見れんのなら、出て行け!」とどなられたこともありました。

 

 

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終戦となり、「陸軍病院は進駐軍に接収される(強制的に取上げられる)」という話が出ました。そのためこの時期に病院を辞めていく人も多くなりました。

 

 

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戦時中に夫と長女を亡くし、さらに敗戦のショックで母は気弱になっていました。また私の結婚を心配していたこともあり「病院看護婦を辞めるように」と言いました。<o:p></o:p>

私は看護婦の仕事は怖いけれども大好きで、上司も正式の資格受験を勧めてくれましたが、家庭の事情もありやむなく郷里に戻りました。

 

***続く***

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ヒロシマ原爆の被爆者・「お祈りをしなさい」と子どもに数珠を渡す母

2013-05-26 23:50:21 | 自分史の発行

 

  母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

  

(8) 【ヒロシマ原爆による被爆者の救護】

 

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昭和2086日に本部より「緊急救護」の連絡があり、軍医、衛生兵、および15名の看護婦生による救護班が編成され、岡山発午後9時ごろの夜行臨時列車でヒロシマに向けて発ちました。

 

 

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 夜行列車は進んだり停まったりのノロノロ運転で、機能していた最寄り駅(どのあたりだったのかわかりません)に到着したのは7日夜明け頃です。

 

 

イラスト:広島記念公園の原爆ドーム

 

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そこからは線路をつたって歩き、目的地とされた広島市内の学校に向かいました。あたり一面焼け野原が広がり、とても地面が熱くなっていましたが、その一方で奇妙なほど静かです。

 

 

 

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 突然目に入ってきたのは、赤ちゃんを背負い、手にバケツを持ったまま硬直している母親の姿。そして建物にくっきりと刻印されたような人間の影。そして市内を流れる大田川には、折り重なるように死体が浮かんでいました。これは飲み水を求めて川に入った人が多かったから、と後で知りました。

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 野宿を一泊したあと、救護所での活動が始まりました。

 

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(9)【「お祈りをしなさい」と話す母親】

                               写真:学徒動員の頃、友人たちと

 

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<o:p></o:p>救護隊は数日後に宇品にある臨時野戦病院に移りました。そこにも日を追うごとに火傷の重傷者が運び込まれ、床や外にまで患者さんが並び、足の踏み場もない状態となりました。負傷した人たちは、救護する男性に「兵隊さん」、女性に「看護婦さん」と呼びかけ、「手当てをしてください」「水をください」などと助けを求め、手を合わせました。

 

 

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大火傷を負ったことで、腕の動脈から血が噴き出している男性がいましたが、布でしっかりと縛って止血するしかなす術がなく、目の前で亡くなってしまいました。 

また母子共に傷ついた母親が子どもに数珠を渡し、「お祈りをしなさい」と話している姿が印象に残っています。

 

 

 

写真:看護婦生徒 冬の服装

 

 

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どこを探しても満足な医薬品はなく、充分な医療行為もできず、手当てといえば、患部にチンク油やオリーブ油を塗ることだけでした。真夏の炎天下で「水をください」と手を差し伸べたまま、蛆虫がいっぱいわいたまま、大勢の人たちが亡くなっていきました。

 

 

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現在でも、たとえばアフリカの戦争や難民のニュースのなかで、たくさんの人間を穴の中で焼いている光景が流れたりすると、当時を思い出してしまいます。

 

           写真:広島平和記念資料館「被爆死した伸一ちゃんの三輪車」

 

***続く***

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岡山市の大空襲で同期生2名が戦死

2013-05-12 20:37:08 | 自分史の発行

 

 

   1ヶ月前から「福島第一原子力発電所地下の貯水槽から汚染水が漏れている」というニュースが続いています。漏洩による地下水の汚染は確認されていない、とはいえ貯水タンクはすでに7000tを超えているといわれ、今後は増え続ける汚染水処理も大問題となってきます。

 

 

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 またいくら地上の除染を行っても、結局は最終的に地下水とか海水に流れていくわけで、海産物や海鳥などを媒介した食物連鎖が回っていくことでしょう。微量だし問題はない、という楽観論を信じたい気持ちもありますが、結局「よくわからない」のが実体で、どこにも確信などはないのです。

 

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写真:前列には軍刀を脇にした軍医どの

 

 

 

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 また5/11には「警察庁と海上保安庁が合同で福島第一原発へのテロを想定した訓練を行った」ニュースもありました。地球を共有する私たちの中でそんなテロが起こるとは想定したくないですが、もはや「性善説」ははるか遠くにありて思うものに・・・。

 

 

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だけどいくら訓練しても「遠隔操作犯」などには全く無意味であることを、認識すべきでしょう。<o:p></o:p>

 一方で安部総理は3日、「トルコに原発を輸出する調印」と報じられました。結局経済には勝てない、ということ? エネルギーを生み出す一方で、手に負えない、取り返しがつかない魔物である「パンドラの箱」を閉じることは相当難しそうです。

 

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 母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ 』<o:p></o:p>

のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

 

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(7) 【岡山市の大空襲で同期生2名が戦死】

 

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 昭和20年春、姫路市陸軍病院での四ヶ月間の実地研修を終え、岡山の看護婦生徒一期生26は、岡山陸軍病院(現国立岡山病院)に実習生として配属されました。<o:p></o:p>

それからすぐ629日に、死者1700人、負傷者6000人以上といわれる岡山大空襲が勃発しました。真夜中の午前2時頃に、140機を超えるB29爆撃機が襲来し、激しい爆撃が始まりました。警戒警報がなかったために被害が大きくなったといわれます。

 

 

                写真:看護婦生徒として配属された

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爆撃に使われた焼夷弾(しょういだん)には、2種類の爆弾が含まれ、最初に「親爆弾」が炸裂した後、48個の「子爆弾」に分裂し、それぞれが火の帯を引いて落ちてきます。地面に達するとさらに爆発して、周囲に火のついた油脂を撒き散らしました。B29による爆撃は、火災により人や街を破壊するもので、岡山旧市街地の七割以上を焼き尽くしました。

 

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私は仲間と一緒に、寄宿地となっていた岡山市の妙善寺から裏山の防空壕をめざして必死に駆け上がりました。爆撃機の爆音が響き、あちらこちらに火の手があがるなか、真っ暗で足元は見えず、気ばかり焦って思うように登れません。何度も転んだり、前の人をつかんで一緒にずり落ちたりしながら「神様助けてください」「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と必死に祈りました。

 

 

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しかし逃げ遅れた二期生の仲間がふたり、不幸にも焼夷弾の直撃を受けて即死状態となってしまいました。<o:p></o:p>

仲間が戦死してしまった、自分はたまたま生きのびた、という生死の境に置かれた人間の精神状態を考えるまもなく、次の試練が待っていました。

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***続く***

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写真:本人提供<o:p></o:p>

イラスト:石原まゆみ氏提供<o:p></o:p>

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『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~ 』

2013-05-10 23:30:02 | 自分史の発行

 

                       

                         写真:「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」

 

  昨年末に実母の自分史である「楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~」を発行しました。(B5版、32ページ、著者:石原淑子、イラスト:石原まゆみ、発行:朱鷺色工房)

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 母は第二次世界大戦の末期、昭和204月に陸軍看護婦生徒に志願しましたが、直後に岡山大空襲に遭遇し同期生2人をB29の爆撃で失いました。さらに86日には本部から「緊急救護要請」が来て、ヒロシマ原爆による被爆者の救護活動に携わりました。

 

 

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 かねてよりあいよっこには、「母が体験した戦争と被爆者救護のようすを書き残して伝えたい」という気持ちがあり、当初は平成15年に母の話をもとに小冊子にまとめたものでした。

 

 

写真:学徒動員の頃、まだ幼さの残るはちまき姿

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 それを自分史として発行したのは、東日本大震災に続いて起きた「福島第一原子力発電所の水素爆発」に拠るところが大きいです。

 

 

 

 

  原発爆発により広い地域に放射能汚染が広がり、未だに多くの住民が避難されていますが、廃炉にするにも長い年月が必要だし、汚染地域が除染されるのも天文学的年月と費用がかかるといわれ、元の生活に戻れる目処はたっていません。 

 

 

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写真上と下:苦労を共にした看護婦生徒の仲間たち<o:p></o:p>

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  敗戦当時日本は世界に向けて「ノーモア・ヒロシマ&ナガサキ! ノーモア・ヒバクシャ!」と叫んできたのに、「夢のエネルギーを平和利用」とされた原発でも「被爆」という同じ状況が起きているのがとても残念だし、同時に怒りや疑問も湧き上がってきます。

 

 

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 みなさまにも母の体験を知っていただけたらと願い、自分史のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。

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(6) 【学徒動員で紡績工場へ、そして看護婦生徒に】

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 第二次世界大戦が激しさを増すなか、昭和1911月ごろから学徒動員が始まりました。人手不足、物資不足は激しく、学生・生徒たちも貴重な労働力となったのです。<o:p></o:p>

今、全員ハチマキ姿の写真を見ると、まだまだみんな幼さの残る女子生徒たちで痛々しい感じもします。もちろん当時の自分たちは意気盛んでしたが・・・。

 

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実業学校生徒だった私は、学徒動員でまず井原市にある鳥越紡績工場で生糸を紡ぐ仕事に就きました。生糸からは「軽くて強い」と戦闘機のパラシュート生地が作られると聞きました。<o:p></o:p>

食べ物が足りない状況だったこともあり、蚕のサナギの佃煮などが給食に出たことを思い出します。味は覚えていませんが、不思議と嫌いだとか、食べられなかったという思いはなく、それほど食料不足は深刻だったのです。

 

 

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しかし戦況は次第にせっぱつまった雰囲気になりました。実は敗戦色が濃くなってくるのですが、私たちにわかるはずはありません。時代や周囲の人々の雰囲気に押されるように、陸軍看護婦生徒に志願しました。<o:p></o:p>

これには母親が強く反対しましたが、「お国のためにじっとしていられない」と押し切りました。思えば若くて多感な17歳だったのです。<o:p></o:p>

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***続く***

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 写真:本人提供<o:p></o:p>

 イラスト:石原まゆみ氏提供

 

 

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 イラスト:解禁となった「初めてのパーマ」をかけたら・・・! <o:p></o:p>

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