あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

こんなのもあり?タクシーとバイクの接触事故

2011-02-11 23:43:27 | ベトナム ハノイとハロン湾の旅

 

                         写真:テト(旧暦のお正月)の飾りが色鮮やか

 

   10:30関西国際空港発のベトナム航空便は予定通りハノイ・ノイバイ国際空港に到着しましたが、その後が大変でした。預けた荷物が30分経っても、1時間経っても出てこなくて、荷物受け渡し場の周囲にはたくさんの人垣ができています。(写真下)

 

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 ターンテーブルを回っている荷物にはタンス程の大きさ(!)もあり、炊飯器(中国製らしい)などの家電製品も多いです。どうやら北京便、ソウル便などが同時に到着しているようで、品物を買い込んで来る人たちも多いのでしょう。

 

 

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結局自分たちの荷物が出てくるのに2時間近くかかってしまいました。(疲)こうした事態はいつものことらしく、スタッフや現地の人々は頓着しているようすはありません。でもその後予定していた市内観光の半分がカットされるはめに・・・。

 

 

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ノイバイ空港で出発便と到着便のそれぞれを同じ時刻帯に集めているのは、効率を良くするためもあるのでしょうが、他国の空港使用料が安い時刻に到着することで節約のためもある、と後で知りました。

 

 

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ベトナム到着の最初から人の多さに圧倒されましたが、まだまだこれは序の口だったのです。空港からハノイ市街に向うバスの中から見る道路、そして道路脇の人々、噂には聞いていましたが、想像をはるかに超えていました。

 

                  写真:ラッシュ時でなくてもこのバイクの量

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道路にはバスなどの大型車、普通乗用車、そして最も量が多いバイク、次に多い自転車が混在し、その間を人々が縫うように渡り、歩いていきます。市街地には信号機がありますが数は絶対的に少なく、さまざまな音や大きさのクラクションが響き渡り、まさしく「喧騒」とはこのことです。

 

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渋滞の中心の交差点の真ん中ではたいてい、警察官なのか、軍隊なのか、ガードマンなのかわかりませんが、制服姿の男性が交通整理をしています。どうやら道路の角々に、と思えるくらいたくさんのボリスボックスがあり、渋滞が起こるやいなや登場して交通整理が始まるようです。つまり道路整備より人件費のほうが安いということなのかな?

 

 

<o:p>写真:交差点の真ん中で笛を吹くおまわりさん</o:p>

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交通整理のおまわりさんも見ているだけで「危なくないのか?」とハラハラしますが、大量の人や車は独特のルール(おそらく)に従って通り過ぎていくのです。

 

 

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渋滞で立ち止まったバイクは、さっさと歩道を走り始めます。歩道には家側からは人が食事や雑談などいろんなことをしているし、<o:p></o:p>反対側には車やバイクが駐停車しています。車の中から道路を見ているだけでも「なんでもありだなあ」、歩道を歩くのも「どこを歩けば良いのだろう」、道路を横断するのは「まさに命がけ」なのです。

 

 

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しかし暗黙の了解のルールですべてうまくいくはずもありません。車の中からは一度大型クレーン車と乗用車の追突事故を、歩いていて目の前でタクシーとバイクが接触する事故を目撃しました。タクシーの前部バンパーがはがれてしまいましたが、両者は何事もなく通り過ぎていきました!「うっそお~!」

 

写真:これもお正月の飾りかな?<o:p></o:p>

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ニッポンサッカーのチカラ!?

2011-02-03 18:12:00 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

         写真:タムコック運河はハロン湾より景観は素晴らしく、スリルもあります

 

1月の終わりにベトナムハノイ(ハノイ・ハロン湾5日間のツアー)に行きました。ツアーの詳細はまた後で報告しますが、オヤッと思い、嬉しくなったのは「陸のハロン」とも呼ばれる「タムコック運河クルーズ」の小船の上でした。

 

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 クルーズでは鍾乳岩から成る奇岩・巨岩が続く運河を、2時間かけて往復します。たくさんのボートが行き交う中、向こうから「お~!ニッポ~ン?」とアメリカ人風のがっしりしたおじさまが呼びかけてきました。

 

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 「イエ~ス(なぜか英語)」と答えると「イエーイ!!」と満面の笑みにガッツポーズ。「なんで?」と思いつつも手を振って応えました。でも「え?ニッポン人ってそんなに人気あるん?」と腑に落ちない気持ちが残りました。

 

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 帰国後、新聞を見て「もしかしてこれか?」と納得したのです。前日にアジアカップ2011準決勝で、ニッポンが韓国に勝ったようでした。特にアジアにおいてはこれまで「反日感情」の強さを実感し、居心地の悪さを感じたことは少なくありませんが、今回の外国人からの反応は本当に意外でした。

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 これがサッカーのチカラとすると、スポーツのチカラって偉大ですね~。そしてつい先入観から陽気なアメリカ人と思いましたが、あるいはザッケローニ監督のイタリア人だったかな?

 

 

 

写真上:観心寺の「建掛塔(たてかけのとう)」は三重塔の一重部分が、正成の討死で未完のまま。

<o:p>写真右:観心寺にある後村上天皇のお墓「桧尾陵(ひのおりょう)」</o:p>

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さてさて本題に戻り、河内地方の南朝史跡の続きです。

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1339年後醍醐天皇崩御後、即位したのは第六皇子の後村上天皇でした。吉野を逃れた天皇はいったん大和賀名生(あのう)に行宮(仮の皇居)を置きます。一時的には室町幕府の内紛や高師直・師泰兄弟間の反目などを利用して、京を奪還し三種の神器を接収するなどしました。ただ南朝だけで勝利できるような勢力はなかったとされます。

 

 

 

写真:観心寺にも後村上天皇の行在所が置かれました。「後村上天皇御宮跡」

 

 

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このときに活躍したのが、楠木正成の三男(正行・正時の弟)正儀(まさのり)で、「七条大宮の戦い」では足利善詮(よしあきら)を破り、1354年北朝の3人の上皇、光厳・光明・崇光を連行し<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="27:大阪府河内長野市;" Address="河内長野市">河内長野市</st1:MSNCTYST>にある「天野山 金剛寺」に北朝行宮を置きます。

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数ヵ月後に後村上天皇も金剛寺に行宮を移し、南朝として6年間政務を執りました。南朝行宮は「摩尼院」、執務所は「食堂(じきどう)」、北朝3上皇を幽閉したのは「塔頭 観蔵院」と言われます。後村上天皇は最期に住吉大社で崩御され、御陵は観心寺にあります。

 

 

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 金剛寺は北朝と南朝が同じ場所に存在したとして特異な場所なのですが、参拝した日は境内中が工事だらけ。そのうえ寺の隣にある「摩尼院」は日曜・祝祭日のみの開院で、見ることはかないませんでした。懲りずにまた行こうっと。

 

 

写真:金剛寺は工事中であまり撮影ができません。風流な建物とかわいいお地蔵さん。

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