あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

どうしても行って確認しなければ・・・今日は日記です

2010-08-22 21:21:22 | 日記

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                    写真:宮滝では飛び込みで命を落とす人が多い

 

  「近日中に・・・」と言いながら一週間以上経過してしまいました。だがこうなるとどうしても、宮内省が自天王の墓、つまり「北山宮墓」と治定した<st1:MSNCTYST Address="上北山村" AddressList="29:上北山村;" w:st="on">上北山村</st1:MSNCTYST>の瀧川寺(りゅうせんじ)と自天王をお祀りする「北山神社」に行ってみなくては。 

 

<o:p></o:p>  また<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>で長く「弟・忠義王の墓」とされてきながら、現在は「南帝王の森」と呼ばれ、宮内庁が「川上陵墓参考地」としている高原地区のお墓もこの目で確かめてみたいです。なぜ村民を困惑させるような事態になってしまったのでしょう?

 

 

<o:p></o:p> <o:p>写真:桜木神社のシマヘビは、緊張感がなくぐったりしているみたいだし、顔はどっちに?</o:p>

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  夏の暑さにはどうしようもなく弱くて、例年ならば通り過ぎるのを静か~に待つのですが、「目的を持つこと」ってすごい力を発揮するものです。連日続くこの暑さとカンカン照りの太陽にめまいを覚えながらこの週末、<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>と南隣にある<st1:MSNCTYST Address="上北山村" AddressList="29:上北山村;" w:st="on">上北山村</st1:MSNCTYST>に行ってきました。(汗) 

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  さて国道169号線を南下する途中に<st1:MSNCTYST Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;" w:st="on">吉野町</st1:MSNCTYST>宮滝という、南朝史でも名前が出てくる有名な場所があります。ところが今では「飛び込みで命を落とす人が増えている」というニュースで有名になってしまいました。ちょっと寄り道してみます。

 

 

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 なるほど本日も、若者たちが大声をあげて楽しそうに川遊びに興じています。何度も「飛び込み禁止」を訴えるメッセージがスピーカーから流れるためか、さすがに飛び込んでいる人は見当たりません。

 

 

<o:p></o:p>     写真右:大滝の「鎧崖(よろいがけ)」には義経伝説が。

 

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  それは良いのですが、周囲の白く美しい岩の上にはゴミが散乱しています。そういえば駐車場ではおびただしい量のゴミ・ゴミ袋を、地域の方々が整理していました。最近思うのですが、年代に関係なく「自分の欲望・快楽の後始末が苦手な人」が増えていると感じてしまいます。「自分自身の始末をきちんとする」ことにはかなりの気概も必要ですね~。

 

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  その奥にある「桜木神社」は古いいわれのある、雰囲気の良い神社ですが、撮影していて固まってしまいました。ギョッ! 黒いしましまヘビがっ!(またまた、こんどは冷たい汗) 神社にヘビはつきものとはいえ、50cmほど横にいたのです。しかしヘビはピクリとも動かず、あるいはこの暑さに参っているのでしょうか?

 

 

<o:p></o:p> 写真:柿の葉寿司名人「梅野ばあちゃん」の娘さん(右)

 

                      

 

  さらに国道169号線を南に<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>大滝地区に入ると、川向こうに「土倉翁造林頌徳」と大きな文字(1字が畳2畳分あるらしい)で彫られている大岩が目に飛び込んできます。地域の林業に貢献した土倉翁を称えるこの巨岩は「鎧崖(よろいがけ)」と呼ばれ「源義経が鎧を脱ぎ捨てた場所」とされているのです。「重すぎて脱いだのですか?」と聞くと、「不明だけど、もう逃げられないと観念したのでは?」

 

                          

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こんな伝説を話してくださったのは大滝茶屋のおかみさん。ここは知る人ぞ知る「柿の葉寿司」の老舗で、亡くなった先代の辻井梅野さんが「吉野のお土産に」と最初に売り出したのです。 

 

  

なんと柿の葉寿司は、後南朝と深いつながりもあることが判明しました。1444年に後亀山天皇の皇孫、萬寿寺宮空因親王(尊義王)が三之公に御所を構えられたとき、里人が親王をお慰めするために遥か熊野から運ばれた塩鯖を用いて寿司を作り奉じたのです。ところが臣下に分け与えるにも器がなく、山柿の葉に盛ったのが「柿の葉寿司」の始まりと伝わっているのです。

 

 

 写真:蜻蛉(せいれい)の滝に一瞬、虹がかかりました。

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「そのため母は、三之公に石碑を建立しました」と梅野さんの娘であるおかみさんは話しました。そして今も機械に頼らないで手作りの「昔ながらの味」を守っています。甘辛く煮たしいたけやふきなどを、とろろ昆布で巻いた山菜巻きもおすすめですよ。(写真上の右)

 

 

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宮滝といい、大滝といい「滝がないのになぜ?」と思っていたら、友人の国語教師のY先生が「『滝』には、川の流れが瀬や淵になり、流れが急になったり曲がったりしている意味もある」と教えてくれました。「古代韓国語の影響もあるのでは?」とも。「ふ~ん、そうなんだ~」 こんなに山深いところなのに、歴史的には古く、古事記に載っているいわれもあるのです。<o:p></o:p>

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村民にとってはまさに晴天の霹靂!

2010-08-14 19:07:23 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                  写真:河野宮に登る階段から見る金剛寺の屋根

 

後南朝ゆかりの場所のうち、金剛寺は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>で最も重要で有名な史跡です。大迫ダムの北にある大平橋を渡り細い山道を登るので、山奥に分け入った雰囲気ですが、お寺からの前景は見晴らしが良いことに驚きます。

 

 

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写真左:妹背山金剛寺は修験道と深いつながりがあります   

写真右:毎年2月5日、自天王の命日に「朝拝式」が執り行われます

 

 

 

<o:p></o:p>本尊「地蔵菩薩像」は、「修験道の開祖である役業者が彫り、大峯山からここに投げた」と伝わる「投げ地蔵」で、それもなるほどと思えるロケーションなのです。寺伝では1336年に後醍醐天皇より「金剛寺」という寺号を賜ったとされます。

 

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写真:金剛寺にあるけやきの大木。

   推定樹齢800年といわれ、高所の境内にあるために

   永年の風雪や雷などで痛んでいますが、青々として

   います。

 

 

金剛寺の右側には「朝拝式を執り行うための社務所」、そして自天王の遺品である甲冑、刀剣などが納められている「宝物庫」が続き、一番奥に自天王をお祀りする「自天王神社」が鎮座しています。

 

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そして本堂の左側には大きな石碑「自天王碑」があり、たくさんの文字が刻まれています。さらに御陵の手前には「南帝自天皇陵」の石碑もあるのですが、御陵の柵の入り口には「宮内庁 河野宮墓」と掲げられているのです。

 

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自天王とは「兄・尊秀(たかひで)王」あるいは「一ノ宮・北山宮」と称され、「河野宮」は「弟・忠義(ただよし)王」で「二ノ宮」などとも呼ばれます。事情がわからないと「いったいどっち?」と思ってしまいます。<o:p></o:p>

 

 

写真:河野宮墓周辺には「長禄の変の際に両王とともに

命を落とした人たちの墓」も。

 

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明治152月に当時の宮内省は「金剛寺のお墓を自天王の墓」と公認し、そのときに「自天王碑」が建立されました。ところが明治45年に行われた改定で、ここのお墓は「河野宮」、つまり弟忠義王のお墓であり、自天王の墓は<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>瀧川寺にあるお墓とされたのです。

 

 

 

   そのあたりの事情を『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)では次のように説明しています。「・・・明治45129日に至り、宮内省は突如として次の告示を発表した。

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【宮内省告示第壱号<o:p></o:p>

恒性皇子墓 後醍醐天皇皇子<o:p></o:p>

 富山県射水郡二塚村大字二塚<o:p></o:p>

北山宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>

 <st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡上北山村大字小橡&#13;;" Address="奈良県吉野郡上北山村大字小橡&#13;">奈良県吉野郡上北山村大字小橡<o:p></o:p></st1:MSNCTYST>

河野宮墓 後亀山天皇玄孫<o:p></o:p>

 奈良県吉野郡川上村大字神之谷】

 

 

<o:p> 写真:墓前で吟じるガイドのMさん</o:p>

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  「この北山、河野両宮の御墓の治定については川上村は宮内省より事前になんらの内示も受けていなかったので、この告示の発表は村民にとってまったく晴天の霹靂(せいてんのへきれき)であった」

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続きは近日中に。<o:p></o:p>

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謎が謎を呼び、ロマンをかきたてられる物語

2010-08-04 23:00:16 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

                      写真:背景の山と重なる「後南朝最後の古戦場」の石碑

 

  「後南朝の歴史は未知の部分が多くてややこしい」のは事実ですが、だからこそ謎が謎を呼び、ロマンをかきたてられるのでしょう。後南朝に魅せられる研究者や文学者、さらにファンやマニアが多いことを知りました。ここでは<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>の史料・遺跡・言い伝えなどを中心に紹介します。 

 

 

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 国道169号線を南下して寺尾地区に入ると、道路わきにりっぱな石碑が二基建っています。向って右側が「御首載石(みくびのせいわ)」跡碑で、左側の山型石碑が「後南朝最後の古戦場」碑です。

 

 

<o:p>写真:滝川政次郎氏の力強い揮毫による</o:p>

<o:p>  「御首載石」跡碑</o:p>

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 大滝ダムができる前、道路はもっと川面近くの下方にあり、ちょうどこの下の河原に「御首載石」と伝わる大石があったそうです。しかし残念ながら昭和34年の伊勢湾台風で流されてしまいました。

 

 

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「御首」って、いったい誰の?「載石」って、なんのために首を載せるの?といった疑問が脳裏をよぎります。その答えを一言でいえば「後南朝最後の天皇、自天王さまの御首」(弟・忠義王の首との説もある)であり、「赤松一族の残党に殺され、雪の中に埋められていた御首を取り戻し、供養するために載せた石」ということになります。

 

 

写真右:朝日館の「郷土料理のお弁当」

 

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長禄元年(145712月に起きたこの「長禄の変(ちょうろくのへん)」は、後南朝史にあって最も痛ましく、南朝から後南朝へと続く後醍醐天皇末裔の終焉を告げる事件でした。

 

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  写真:自天王御製の歌を書いた滝川政次郎の書

 

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さてお楽しみの昼食は、柏木地区にある大正年間創業の「朝日館」でいただく「郷土料理のお弁当」です。材料はすべてこの地域産で、山菜や鮎料理、そして手作り「ゆず羊羹」のデザートも美味しかったです。

 

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ここは大峯山への登山口でもあり老舗旅館が並びます。古くから「朝日が昇る方角からの登山が霊験あらたか」とされましたが、登山客の減少で寂しくなっているのが現実です。

 

 

 

写真右:

大西源一の書 

 

 

 

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朝日館そのものは後南朝史と直接の関係はありませんが、戦前にはお忍びで朝拝式に参列した「勅使」が宿泊したと伝わる「南朝の間」が現在もお宿として使われています。

 

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そしておかみさんが貴重な色紙を見せてくださいました。南朝研究で有名な滝川政次郎氏や大西源一らの名前をも見えます。近くには「吉野葛」を著した谷崎潤一郎が泊まったお宿(写真左)もあり、古くから著名な人たちを惹き付け人々が訪れた場所だったのです。<o:p></o:p>

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