あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

一心に祈りを込めて写経を

2010-07-29 18:31:21 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                       写真:烏川神社の狛犬

 

 東川(うのがわ)の運川寺(うんせんじ)とお隣の烏川(うかわ)神社は、ひっそりと素朴な雰囲気とともに、神性が漂っています。運川寺のほうは手狭なお寺でありながら、古い石垣の上に建つ小さな天守閣のようなお堂がお気に入りになりました。(前回の写真)

 

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前園実知雄ら編『仙境の吉野』(2004、文英堂)の、森下恵介著「第8章 南北朝の動乱と吉野―南朝・後南朝と吉野の人々」によると、このお寺に伝わる「大般若経(だいはんにゃぎょう)六百巻」(県指定文化財)には、正平14年(1359)から20年にかけて、南朝を支持する雲祥(うんしょう)という僧が書いた写経が記されています。

 

 

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<o:p>写真:烏川神社境内</o:p>

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各巻に書かれている奥書(おくがき:著者名・年月日・来歴・由来など)では、当時の南朝の様子がよく窺えます。写経の功徳により、金輪聖主(後村上天皇:後醍醐天皇から譲位)の安全と天下静謐(せいひつ)を請願し、元弘年間以来陣没(じんぼつ)した亡魂の冥福を祈っているのです。

 

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正平14年というと、まだ南朝時代ですが、年末には楠木氏の本拠に近い観心寺(<st1:MSNCTYST Address="河内長野市" AddressList="27:大阪府河内長野市;" w:st="on">河内長野市</st1:MSNCTYST>)に天皇が移り、翌年には南朝の一時的攻勢により、摂津住吉(住吉神社)が行宮となるなど、動乱の舞台が河内に移っていく頃です。

 

 

写真右:自天親王神社にある経塚

 

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154は、当時宇陀郡の牧堯観(まきぎょうかん)とその執事である津風呂光季(つぶろみつすえ)らが、官軍の楠木氏とともに河内古市(<st1:MSNCTYST Address="羽曳野市" AddressList="27:大阪府羽曳野市;" w:st="on">羽曳野市</st1:MSNCTYST>)の武家方を攻めている最中の写経です。

 

 

 

 写経の功徳に大きな期待を寄せて、敵方兇徒退散を一心に祈っているのです。経典や写経を納めた経塚(きょうづか)がここ運川寺はもちろん、金剛寺、自天親王神社など、<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>の寺社には多く残っているようです。

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歴史書によると、当時ほぼ全国いたるところで戦いがあったようですが、各地の戦況や戦績などの情報が、必要なところには早く届いていたようですね。こんな山奥で交通不便なところであっても!

 

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さて後南朝の舞台を巡っていると、ひとつ天皇さまの名前にしても、たくさんの別名があり、混乱します。別名はやはり身を隠す必要からうまれたのでしょうか?

 

 

写真:運川寺の経塚

 

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さらに御陵に<st1:MSNCTYST Address="関しても、村" AddressList="21:関しても、村;" w:st="on">関しても、村</st1:MSNCTYST>にとっては一大事ともいえる事件がありました。詳細は後述しますが、つまり筋目衆(郷士)が「自天親王(北山宮・後亀山天皇のひ孫)の御陵」と大切に守ってきたお墓を、宮内庁は、自天親王の弟である「忠義王の墓(河野宮)」と指定したのです。

 

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そもそも伝説の部分が多いことに加えて村民と宮内庁の見解が違うことなどもあり、ちょっとややこしいのです。なるべくわかりやすく伝えたいです。<o:p></o:p>

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深く静かな山あいの村で、隠された豊かな文化

2010-07-19 18:05:08 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉
  

   東川(うのかわ)地区にある住吉神社は、南朝最後の後亀山天皇の皇子、実仁(さねひと)親王の墓所と伝わります。親王は別名を小倉宮広成(おぐらのみやひろなり)とも呼ばれ、土地の人々はこの小高い丘を「小倉宮」として祀ってきました。かつてこの地区に「小倉御所」が置かれ、後南朝の拠点となっていたともいわれるゆえんです。

 

 

<o:p> 写真:住吉神社の奥にある丸い高みが墓所と伝わる</o:p>

 

 

ちなみに大阪の住吉神社とは直接のつながりはないようで、あるいは「小倉宮」を隠すための表の名前だったのかもしれません。

 

 

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  <st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の後南朝の歴史おいて最も大切な儀式が、1458年から550年以上にわたって受け継がれている「朝拝式」です。毎年25日、厳しい寒さと雪の中で密かに執り行われてきました。

 

 

 写真右:Mさんが手にする「筋目証明書」

     (ご自分のものではありません)

 

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  2007年の「550年祭」を契機に、神之谷(こうのたに)地区の金剛寺で行われることに統一されました 。だが歴史的に古くは、村内各地区でのもちまわりで実施され、その後高原地区の福原寺と金剛寺の2ヶ所で行われるなどの変遷を経て現在の形になりました。儀式を行うのは「筋目(すじめ)」と呼ばれる家系の男性に限られていましたが、2008年から一般の人も拝観できるようになりました。

 

 

<o:p>写真:住吉神社や烏川(うかわ)神社には、材木商などが納めた珍しい生駒石の燈籠があります。</o:p>

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 筋目は後南朝最後の皇統「自天王(尊秀王:後亀山天皇の曾孫)」が赤松一族に暗殺されたとき(1457年)、戦って御首を奪い返した郷民たちです。大正末期に900戸も存在したという筋目も、高齢化と過疎化により現在は23地区で30名あまりとなっているそうです。

 

 

 

 

写真左下:烏川(うかわ)神社のご本殿は横向きです

写真右下:かつてもちまわりの時代に、東川地区はこの運川寺で「朝拝式」を行っていました。

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 Mさんはとても興味深い話を披露してくださいました。持ち回りで儀式を行っていたとき、自天王の遺品である「兜」の移動はおごそかな行列でした。しかも絶対に立ち止まってはいけないのです。寒い時期でもあり、がまんできなくなった担ぎ手から「お小水」が漏れることもたびたびあったそうです。

 

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 また儀式中に榊(さかき)の葉を口にくわえるのは、「御潔斎(ごけっさい:穢れをはらう)」のためでもありますが、「決して秘密を口外しない」という気持ちのあらわれでもあります。

 

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 それにしても南朝後胤たちの悲劇を哀れみ、長きにわたって儀式で追慕供養を営むという信仰心の篤さや秘密を守る意思の強さは、なんということでしょう!! 深く静かな山あいの村で、隠された豊かな文化やさまざまなエピソードが伝わっていることにただただ驚きです。<o:p></o:p>

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後南朝ゆかりの金剛寺を歩く

2010-07-13 17:14:33 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

<st2:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on"> 

</st2:MSNCTYST>

<st2:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">                    写真:東川(うのがわ)地区の運川寺には旧い石垣が残る</st2:MSNCTYST>

<st2:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on"></st2:MSNCTYST> 

<st2:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">  

   川上村</st2:MSNCTYST>にある「森と水の源流館」のHPで、「もりみず探検隊~後南朝ゆかりの金剛寺を歩く~」という催しを見つけました。「後南朝」というのは、後醍醐天皇によって興された南朝が1392年に南北朝合一したあと、朝廷に不満を抱く南朝後胤(子孫・末裔)たちがひそかに皇位奪還をめざした運動です。

 

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   南朝ゆかりの遺跡・伝説が主に<st2:MSNCTYST Address="吉野町" AddressList="29:吉野町;" w:st="on">吉野町</st2:MSNCTYST>、西吉野(現<st2:MSNCTYST Address="五條市" AddressList="29:奈良県五條市;" w:st="on">五條市</st2:MSNCTYST>)、大阪府東部を中心としているのに比べ、後南朝のそれらはさらに山深い<st2:MSNCTYST Address="奈良県川上村" AddressList="29:奈良県川上村;" w:st="on">奈良県川上村</st2:MSNCTYST>や<st2:MSNCTYST Address="上北山村" AddressList="29:上北山村;" w:st="on">上北山村</st2:MSNCTYST>へと南下しています。言いかえると、それだけ北朝勢力、つまり室町幕府が強大になったために、追いやられ身を隠す必要性が増したことが窺えます。

  

   写真:若年神社の外側に残る壁画

 

 

  「南朝の舞台」をまだめぐり終えていないのに「後南朝」を報告することは、時系列では前後することになってしまいます。ですが、こんなイベントは希少、かつ貴重なのでいそいそと参加しました。いずれきちんと整理して、まとめたいと思っています。

 

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《もりみず探検隊~後南朝ゆかりの金剛寺を歩く~》<o:p></o:p>

<st1:OLKEVENT w:st="on" Start="2010/06/06/14/59" End="2010/06/06/14/59" AllDayEvent="1">日時:201066</st1:OLKEVENT>(日)<o:p></o:p>

   午前930~午後430<o:p></o:p>

日程:集合「森と水の源流館」<o:p></o:p>

⇒住吉神社「実仁(さねひと)親王墓」と伝わる<o:p></o:p>

⇒烏川(うかわ)神社・運川寺(うんせんじ)<o:p></o:p>

⇒「御首載石(みくび のせいわ)」跡碑・「後南朝最後の古戦場」石碑<o:p></o:p>

⇒料亭・旅館「朝日館」にて郷土料理の昼食<o:p></o:p>

⇒金剛寺・自天親王神社・河野宮墓<o:p></o:p>

⇒若年神社・御座磧(ござがわら)・御座嵓(ござぐら)<o:p></o:p>

⇒八幡神社

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参加料:大人4000円(昼食・マイクロバス)<o:p></o:p>

※源流人会会員は2800円に割引あり

 

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  写真右上:御座嵓(ござぐら)とその前に広がる御座磧(ござがわら)は、大滝ダムが完成するとさらに水に漬かってしまいます。残念!

 

 

  写真右下:運川寺から道を隔てた烏川神社

(写真下)に矢を放つ「弓祝式」が1月に行われる

 

 

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  古い歴史跡というのは難しい漢字や名称が多いので、確認が大変です。万全を期していますが、もし間違っていたら教えてください。またやんごとなき人々をかくまい、秘密を守ってきた、信仰心の篤い地域でもあります。観光マナーを守りましょう。

 

 

 

  当日の案内は森と水の源流館のNさん、そしてガイドは村の生き字引Mさんです。当地では550年前から、自天王・忠義王を偲ぶ「朝拝式」を毎年2月に行っていますが、それを執り行うのは「筋目(すじめ)」と呼ばれる家系です。Mさんもその筋目のひとりなのです。

 

 

 

 

 

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