写真:烏川神社の狛犬
東川(うのがわ)の運川寺(うんせんじ)とお隣の烏川(うかわ)神社は、ひっそりと素朴な雰囲気とともに、神性が漂っています。運川寺のほうは手狭なお寺でありながら、古い石垣の上に建つ小さな天守閣のようなお堂がお気に入りになりました。(前回の写真)
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前園実知雄ら編『仙境の吉野』(2004、文英堂)の、森下恵介著「第8章 南北朝の動乱と吉野―南朝・後南朝と吉野の人々」によると、このお寺に伝わる「大般若経(だいはんにゃぎょう)六百巻」(県指定文化財)には、正平14年(1359)から20年にかけて、南朝を支持する雲祥(うんしょう)という僧が書いた写経が記されています。
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<o:p>写真:烏川神社境内</o:p>
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各巻に書かれている奥書(おくがき:著者名・年月日・来歴・由来など)では、当時の南朝の様子がよく窺えます。写経の功徳により、金輪聖主(後村上天皇:後醍醐天皇から譲位)の安全と天下静謐(せいひつ)を請願し、元弘年間以来陣没(じんぼつ)した亡魂の冥福を祈っているのです。
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正平14年というと、まだ南朝時代ですが、年末には楠木氏の本拠に近い観心寺(<st1:MSNCTYST Address="河内長野市" AddressList="27:大阪府河内長野市;" w:st="on">河内長野市</st1:MSNCTYST>)に天皇が移り、翌年には南朝の一時的攻勢により、摂津住吉(住吉神社)が行宮となるなど、動乱の舞台が河内に移っていく頃です。
写真右:自天親王神社にある経塚
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巻154は、当時宇陀郡の牧堯観(まきぎょうかん)とその執事である津風呂光季(つぶろみつすえ)らが、官軍の楠木氏とともに河内古市(<st1:MSNCTYST Address="羽曳野市" AddressList="27:大阪府羽曳野市;" w:st="on">羽曳野市</st1:MSNCTYST>)の武家方を攻めている最中の写経です。
写経の功徳に大きな期待を寄せて、敵方兇徒退散を一心に祈っているのです。経典や写経を納めた経塚(きょうづか)がここ運川寺はもちろん、金剛寺、自天親王神社など、<st1:MSNCTYST Address="川上村" AddressList="20:川上村;" w:st="on">川上村</st1:MSNCTYST>の寺社には多く残っているようです。
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歴史書によると、当時ほぼ全国いたるところで戦いがあったようですが、各地の戦況や戦績などの情報が、必要なところには早く届いていたようですね。こんな山奥で交通不便なところであっても!
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さて後南朝の舞台を巡っていると、ひとつ天皇さまの名前にしても、たくさんの別名があり、混乱します。別名はやはり身を隠す必要からうまれたのでしょうか?
写真:運川寺の経塚
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さらに御陵に<st1:MSNCTYST Address="関しても、村" AddressList="21:関しても、村;" w:st="on">関しても、村</st1:MSNCTYST>にとっては一大事ともいえる事件がありました。詳細は後述しますが、つまり筋目衆(郷士)が「自天親王(北山宮・後亀山天皇のひ孫)の御陵」と大切に守ってきたお墓を、宮内庁は、自天親王の弟である「忠義王の墓(河野宮)」と指定したのです。
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そもそも伝説の部分が多いことに加えて村民と宮内庁の見解が違うことなどもあり、ちょっとややこしいのです。なるべくわかりやすく伝えたいです。<o:p></o:p>