両津の町は両津湾と湾奥にある加茂湖との間にある砂州の町。その砂州上にある二つの町を繋ぐ橋が両津らんかん橋だ。
現在の両津市街は両津湾と加茂湖をつなぐ水路で夷(エビス)と湊(ミナト)に隔てられている。現在、両者は両津湾側から両津大橋、両津橋、加茂湖橋の3つの橋でつながっているが、その中央の橋を両津らんかん橋、あるいはらんかん橋と呼ぶ。
この橋は古くは境橋と呼ばれていた。橋が先述の夷と湊の町を分かつ小さな境川にかかっていたからだという。そもそもこの橋が架けられたのは、江戸時代初期にさかのぼるといわれるが、島内の重要な港として番所が置かれたことによる。御普請橋として佐渡奉行所によって架けられたのである。
以来、幾度かの掛け替えを経たようだが、現在の橋は昭和56年6月竣工のものである。長さ34.4m、幅13mであるから、橋としては大きいものではないが、地元には最も親しまれてきた橋だ。
写真は歩道部分だけだが、橋と二基の銅像、そしてその背後に村雨の松となるよう撮影してみた。町中をぶらりとまわる際には、撮影ポイントとして進めたい。夕方であれば加茂湖方面からの西日が適当にさしこみ、ほどよく風情もでるであろう。
橋下は干満に応じて、両津湾から加茂湖へ、加茂湖から両津湾へと潮が移動していく。潮の動きのピーク時はそこそこの流速となり、干潮・満潮の変化を目で確認できる。町中にあって、橋上も橋下も楽しめる橋である。
現在の両津市街は両津湾と加茂湖をつなぐ水路で夷(エビス)と湊(ミナト)に隔てられている。現在、両者は両津湾側から両津大橋、両津橋、加茂湖橋の3つの橋でつながっているが、その中央の橋を両津らんかん橋、あるいはらんかん橋と呼ぶ。
この橋は古くは境橋と呼ばれていた。橋が先述の夷と湊の町を分かつ小さな境川にかかっていたからだという。そもそもこの橋が架けられたのは、江戸時代初期にさかのぼるといわれるが、島内の重要な港として番所が置かれたことによる。御普請橋として佐渡奉行所によって架けられたのである。
以来、幾度かの掛け替えを経たようだが、現在の橋は昭和56年6月竣工のものである。長さ34.4m、幅13mであるから、橋としては大きいものではないが、地元には最も親しまれてきた橋だ。
写真は歩道部分だけだが、橋と二基の銅像、そしてその背後に村雨の松となるよう撮影してみた。町中をぶらりとまわる際には、撮影ポイントとして進めたい。夕方であれば加茂湖方面からの西日が適当にさしこみ、ほどよく風情もでるであろう。
橋下は干満に応じて、両津湾から加茂湖へ、加茂湖から両津湾へと潮が移動していく。潮の動きのピーク時はそこそこの流速となり、干潮・満潮の変化を目で確認できる。町中にあって、橋上も橋下も楽しめる橋である。