団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

★ニコラエフスクの日本人虐殺 1920年、尼港事件の真 実

2020年04月17日 | 南京問題

 戦後教育で全く教わらなかった通州事件などを 知ったのは、やはりねずさんのブログからでした。
  一連の日本人虐殺の尼港事件も、2018年6月21日、第 1463回の「★ 百回忌を迎える『尼港事件』を忘れるな」などで取上げたようにねずさんが教えてくれました。

  その尼港事件の当時書かれた本が翻訳されて出版されるそうです。当時の記録は無いのだろうと思ってましたが何と、白系ロシア人のジャーナリストが書いてくれていたようです。よくぞ書いてくれていたものです。

 それにしても、こうした日本人の悲惨な歴史を隠し、嘘の南京事件は大騒ぎする日本の反日売国左翼・在日共は余程日本が嫌いのようです。
 やはり、「日本に住んで日本国籍を持ち、日本語を話すけれど日本人でない者」達としか思えませんね。

  宮崎さんが書評で取り上げてくれています。何時ものようにご自分の体験も紹介してくれていてユニークな書評で興味深い。

  「宮崎正弘の国際情勢解題」   令和二年(2020)4月10日(金曜日)弐 通巻6443号

  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 

 おぞましく、まがまがしく、身の毛もよだつ虐殺事件の真相
  「尼港事件」から百年、いま真実が甦る。貴重な記録、第一級の歴史資料

 アナトーリー・グートマン著 長瀬了治訳
 『ニ コラエフスクの日本人虐殺 ──1920年、尼港事件の真実』(勉誠出版)

 ちょうど百年が経過して、事件は風化した。
 「尼港事件」は殆どだれも知らないが、ロシア極東の港町でおきた日本人の大虐殺事件だ。大正九年のことであり、舞台と なった尼港とはアムール川の出口に位置したニコラエフスク市のことである。
 この町は当時、サハリン州に属していた。日本租界が拓け、多数の日本人住民が居たので領事館もあった。商社も娼妓館も あった。
 暴力革命の余波が極東にも迫っていた。ロシアのボルシェビキ革命を逃れてきたロシア人富裕層、とりわけユダヤ系の人々 が多く、かれらは赤軍を憎んでいた。
ここに多数の中国人と朝鮮人が加わり、軍事集団が輻輳し、裏切りは日常茶飯、赤軍のパルチザンと言っても盗賊、山賊、強 盗のたぐい、彼らが行った虐殺行為は、目撃談が多く残されていた。

だが、真実に迫ることはなかなか容易ではない。
 ミステリーに満ちた「極東共和国」に関しても、戦後はよほどの歴史家いがい、日本人の関心事の対象から外れた。ソ連を 嫌悪し、極東に独立国を宣言したロシア人を日本軍が間接支援していた。極東共和国については語り出すときりがないので、 いまは措く。
 埋もれ逝く歴史!

 ▼通過事件と共通する残虐、猟奇性

 同様に終戦のどさくさに起きた大虐殺事件=「通化事件」は、被害者の日本人が真相をしらないため、ますます分からない と答えるのが大多数。ようやく南京大虐殺の嘘がばれて、つぎに焦点が「通州事件」に移り、こちらのほうは保守陣営のなか でも、少しづつ知られるようになった。(「通州」と「通化」はまったく違います)
 通化事件のほうは、引き上げ途次の日本人およそ三千がシナ人によって虐殺され、河は血の海となり、その犠牲者数は通州 事件の十倍なのである。
誰もが忘れたのか、語りたくないのか。じつは評者(宮崎)、この通化事件現場にも撮影に行ったことがある。
 通州は二回行ったが、こちらのほうは十年前まで当時の遺物も残っていた。いまは新開発区となって北京に編入されて上、 地下鉄が開通し、面影はなにもない。
 前者の通化へは吉林から長距離バスで入り、現場を歩き回って写真を撮り、レポートしたことがある。本書の舞台、尼港の 現場は未踏である。

 さて、尼港事件とは概括的にいえば、ロシア革命後の内戦で赤軍が、ロシア人6000人、日本人730人以上を虐殺し、 赤軍と言うよりも愚連隊、ギャングまがいの犯罪者暴徒は尼港市を壊滅させた。
 1917年にロシア革命はなったが、その後の、赤色パルチザンとは、殺人鬼のような愚連隊集団が実態だった。あまりに も残酷な犯罪行為であり、国際世論は怒りに湧いた。
直後のロシア「調査委員会」報告と生き証人達の生々しい証言で、日本人が忘れさせられた暴力革命の暴虐の凄まじさが甦っ たのだ。

 著者のアナトーリー・グートマンは白系ロシア人ジャーナリストで、事件当時、日本に滞在していた。報を聞いて、直後に ロシアでつくられた「調査委員会」が三か月間現地調査してまとめた報告書を基礎資料とし、自身の取材も加えて執筆したも のである。原書は、1924年ベルリンで出版され、1993年になってカナダで英訳版がでた。
 日本でも最初の訳本は英訳版からの重訳だった。このたびの新刊はロシア語からの翻訳で、より完全な歴史の第一資料であ る。
尼港事件の詳細は、本書の数々の証言で実態が明らかになる。

 この尼港事件と、かの通州事件とを比較すると、共通しているのは殺戮する側の残酷さ、非人間性、悪魔のごとき猟奇性、 この意味ではロシアのゴロツキもシナの殺人舞台も、便乗する朝鮮人も変わらない。
 いわゆる「通州事件」で、中国兵に惨殺された邦人は257名。かの「南京大虐殺」とかいう事件は、中国がでっちあげた フィクション、嘘放送の類いだったことはすでに120%証明されている。
にもかかわらず、中国に裏側から工作されたユネスコは、世界記憶遺産申請を認めた。ブルガリア共産党出身のボゴバが主導 した。日本が貶められているのに、政府も外務省も何もしない。ボゴバと、コルデス(WHO事務局長)、なんとなく似てる なぁ。

 ▼シナの挑発、謀略だったのではないのか

 「通州事件」の記録は、「アーカイブ」が民間人の手で設立され、歴史教科書に一部だけだが掲載され、しかし日本各地で 研究会や講演会が連続開催された。とはいうものの事件から長い歳月が流れ、いったいどれほどの日本人が、この事件の真相 を知っているのだろうか。
まして日本政府は、この事件を忘却の彼方へと自虐的に追いやり、戦後一度も取り上げて中国に抗議し、賠償を請求すること がなかった。
 加藤康男氏の『慟哭の通州』(飛鳥新社)は複眼で通州事件を総攬する。
 第一に廬講橋事件直後におきているという時系列的なポイントが重要である。なぜ北京郊外に日本兵がいたのか。目的は居 留外国人の安全を護るため、今日で言うPKOであり、断じて「侵略」ではなかった。
通州事件は日本を巻き込むためにシナが仕組んだ挑発であり、直後から日本は朝野をあげて中国を討てという合唱になった。 結果的に泥沼の戦争に巻き込まれた。通州の虐殺は「キ東保安部隊」と国民党との密約が存在していた。かれらはもっと大規 模な同時多発テロを準備していたのである。(キ東の「キ」は「北」の下に「異」)。

 第二は中国の「兵」の定義である。
 加藤氏は「中国では『兵』と『匪賊』の差がほとんどないのが実情だった。満州まで含めれば『匪賊』に『緑林』 (盗賊、馬賊)が加わる。兵が脱走して匪賊、馬賊となり、匪賊、馬賊が帰順して兵となるのが日常化していると考えればよい」という。
 それゆえに自治政府が結成され、河北省の指導者が段汝耕だった。ほかにも宋哲元らが いた。かれらは「親日派」とされ、うっかり日本軍は段汝耕らを信じてしまった。たが段も宋も、地下で蒋介石と繋がっていたのだ。
 シナ正規軍は日本の保安部隊と自治政府の保安部隊を襲い、数時間の戦闘となる。民間人の虐殺は匪賊系、つまり蒋介石の 別働隊である「藍衣社」系列の殺人部隊が行ったのである。
 殺戮の舞台となった通州は歴史的に由緒がある。安録山の乱はこの地から発祥した。
 明治四年、台湾で日本人虐殺がおきたとき、北京へ談判にでかけた大久保利通は「台湾は化外の地」と清朝から言質を得 た。その帰路、大久保は通州に滞在した。
 この地で、大久保は通洲で一詩を詠む。
「和なり忽ち下る通州の水
  閑に蓬窓(よしずの下がった窓)に臥して 夢自ら平かなり」

 奇跡的に助かった妊婦ふたりの証言や生き残った新聞記者の実録は当時、ちゃんと新聞にも報道された。

 ▼新資料が飛び出した

 しかし従来の証言、資料にはなった新しい資料が近年になってでてきた。
北京への留学生だった河野通弘は目撃者から貴重な談話を集めて記録を作り、平成七年に手記を残した。当日、かれは 北京にいて、通州方面に爆撃によるのか、黒煙のあがるのを見て、飛びあがった。

 「拓殖大学の先輩にあたる中山正敏を訪ねて東京からやってきたばかりの亀井実の安否だった」。
彼は「大使館の要請で通 州へ救援 と通訳に駆り出される」ことになった。
 通州で見た残虐な地獄。河野通弘は克明にメモをとった。同級生だった亀井は非命に斃れていた。脱線だが、ここにでてく る中山正敏氏。はてと思い当たった。以前に何度もお目にかかった日本空手協会の首席師範の中山氏のことではないか。慌て てページを捲ると、やっぱりそうだった。中山氏は三島由紀夫の空手の師匠で、何回か憂国忌で奉納演武を実演していただい たことを思い出した。

閑話休題。憲兵隊の荒牧中尉も記録を残していた。
 「事件当時の通州憲兵隊長は安部起吉憲兵少佐だったが、事件から一年が経過した昭和十三年八月、新たに荒牧純介憲兵中 尉が赴任してきた」(加藤前掲書)。
 この荒牧が、安部が作成した事件調書を筆写しており、終戦後まで長く保存し、昭和五十六年に私家版の『痛々しい通州虐 殺事変』を残していた。憲兵隊の原本が存在しないため、この荒巻私家版が真実を物語ることになる。
 また加藤氏は、この事件を外国人特派員はいかに報じていたかを探し当てた。フレデリック・ウィリアムズが『中国の戦争 宣伝の内幕』を書いていた。これは近年、田中秀雄氏が翻訳した。 
 ウィリアムズは「古代から近代までを見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう」。「最も暗黒なる町の名と して(通洲は)何世紀のあとも記されることだろう」と書き残していた。
 尼港事件と同様な近現代史の闇。
また一つ、謎の闇の奧に光りが当たった。貴重な記録、第一級の歴史資料

 アナトーリー・グートマン著 長瀬了治訳
 『ニコラエフスクの日本人虐殺 ──1920年、尼港事件の真実』(勉誠出版)

 ちょうど百年が経過して、事件は風化した。
 「尼港事件」は殆どだれも知らないが、ロシア極東の港町でおきた日本人の大虐殺事件だ。大正九年のことであり、舞台と なった尼港とはアムール川の出口に位置したニコラエフスク市のことである。
 この町は当時、サハリン州に属していた。日本租界が拓け、多数の日本人住民が居たので領事館もあった。商社も娼妓館も あった。
 暴力革命の余波が極東にも迫っていた。ロシアのボルシェビキ革命を逃れてきたロシア人富裕層、とりわけユダヤ系の人々 が多く、かれらは赤軍を憎んでいた。
ここに多数の中国人と朝鮮人が加わり、軍事集団が輻輳し、裏切りは日常茶飯、赤軍のパルチザンと言っても盗賊、山賊、強 盗のたぐい、彼らが行った虐殺行為は、目撃談が多く残されていた。

だが、真実に迫ることはなかなか容易ではない。
 ミステリーに満ちた「極東共和国」に関しても、戦後はよほどの歴史家いがい、日本人の関心事の対象から外れた。ソ連を 嫌悪し、極東に独立国を宣言したロシア人を日本軍が間接支援していた。極東共和国については語り出すときりがないので、 いまは措く。
 埋もれ逝く歴史!

 ▼通過事件と共通する残虐、猟奇性

 同様に終戦のどさくさに起きた大虐殺事件=「通化事件」は、被害者の日本人が真相をしらないため、ますます分からない と答えるのが大多数。ようやく南京大虐殺の嘘がばれて、つぎに焦点が「通州事件」に移り、こちらのほうは保守陣営のなか でも、少しづつ知られるようになった。(「通州」と「通化」はまったく違います)
 通化事件のほうは、引き上げ途次の日本人およそ三千がシナ人によって虐殺され、河は血の海となり、その犠牲者数は通州 事件の十倍なのである。
誰もが忘れたのか、語りたくないのか。じつは評者(宮崎)、この通化事件現場にも撮影に行ったことがある。
 通州は二回行ったが、こちらのほうは十年前まで当時の遺物も残っていた。いまは新開発区となって北京に編入されて上、 地下鉄が開通し、面影はなにもない。
 前者の通化へは吉林から長距離バスで入り、現場を歩き回って写真を撮り、レポートしたことがある。本書の舞台、尼港の 現場は未踏である。

 さて、尼港事件とは概括的にいえば、ロシア革命後の内戦で赤軍が、ロシア人6000人、日本人730人以上を虐殺し、 赤軍と言うよりも愚連隊、ギャングまがいの犯罪者暴徒は尼港市を壊滅させた。
 1917年にロシア革命はなったが、その後の、赤色パルチザンとは、殺人鬼のような愚連隊集団が実態だった。あまりに も残酷な犯罪行為であり、国際世論は怒りに湧いた。
直後のロシア「調査委員会」報告と生き証人達の生々しい証言で、日本人が忘れさせられた暴力革命の暴虐の凄まじさが甦っ たのだ。

 著者のアナトーリー・グートマンは白系ロシア人ジャーナリストで、事件当時、日本に滞在していた。報を聞いて、直後に ロシアでつくられた「調査委員会」が三か月間現地調査してまとめた報告書を基礎資料とし、自身の取材も加えて執筆したも のである。原書は、1924年ベルリンで出版され、1993年になってカナダで英訳版がでた。
 日本でも最初の訳本は英訳版からの重訳だった。このたびの新刊はロシア語からの翻訳で、より完全な歴史の第一資料であ る。
尼港事件の詳細は、本書の数々の証言で実態が明らかになる。

 この尼港事件と、かの通州事件とを比較すると、共通しているのは殺戮する側の残酷さ、非人間性、悪魔のごとき猟奇性、 この意味ではロシアのゴロツキもシナの殺人舞台も、便乗する朝鮮人も変わらない。
 いわゆる「通州事件」で、中国兵に惨殺された邦人は257名。かの「南京大虐殺」とかいう事件は、中国がでっちあげた フィクション、嘘放送の類いだったことはすでに120%証明されている。
にもかかわらず、中国に裏側から工作されたユネスコは、世界記憶遺産申請を認めた。ブルガリア共産党出身のボゴバが主導 した。日本が貶められているのに、政府も外務省も何もしない。ボゴバと、コルデス(WHO事務局長)、なんとなく似てる なぁ。

 ▼シナの挑発、謀略だったのではないのか

 「通州事件」の記録は、「アーカイブ」が民間人の手で設立され、歴史教科書に一部だけだが掲載され、しかし日本各地で 研究会や講演会が連続開催された。とはいうものの事件から長い歳月が流れ、いったいどれほどの日本人が、この事件の真相 を知っているのだろうか。
まして日本政府は、この事件を忘却の彼方へと自虐的に追いやり、戦後一度も取り上げて中国に抗議し、賠償を請求すること がなかった。
 加藤康男氏の『慟哭の通州』(飛鳥新社)は複眼で通州事件を総攬する。
 第一に廬講橋事件直後におきているという時系列的なポイントが重要である。なぜ北京郊外に日本兵がいたのか。目的は居 留外国人の安全を護るため、今日で言うPKOであり、断じて「侵略」ではなかった。
通州事件は日本を巻き込むためにシナが仕組んだ挑発であり、直後から日本は朝野をあげて中国を討てという合唱になった。 結果的に泥沼の戦争に巻き込まれた。通州の虐殺は「キ東保安部隊」と国民党との密約が存在していた。かれらはもっと大規 模な同時多発テロを準備していたのである。(キ東の「キ」は「北」の下に「異」)。

 第二は中国の「兵」の定義である。
 加藤氏は「中国では『兵』と『匪賊』の差がほとんどないのが実情だった。満州まで含めれば『匪賊』に『緑林』 (盗賊、馬賊)が加わる。兵が脱走して匪賊、馬賊となり、匪賊、馬賊が帰順して兵となるのが日常化していると考えればよい」という。
 それゆえに自治政府が結成され、河北省の指導者が段汝耕だった。ほかにも宋哲元らが いた。かれらは「親日派」とされ、うっかり日本軍は段汝耕らを信じてしまった。たが段も宋も、地下で蒋介石と繋がっていたのだ。
 シナ正規軍は日本の保安部隊と自治政府の保安部隊を襲い、数時間の戦闘となる。民間人の虐殺は匪賊系、つまり蒋介石の 別働隊である「藍衣社」系列の殺人部隊が行ったのである。
 殺戮の舞台となった通州は歴史的に由緒がある。安録山の乱はこの地から発祥した。
 明治四年、台湾で日本人虐殺がおきたとき、北京へ談判にでかけた大久保利通は「台湾は化外の地」と清朝から言質を得 た。その帰路、大久保は通州に滞在した。
 この地で、大久保は通洲で一詩を詠む。
「和なり忽ち下る通州の水
  閑に蓬窓(よしずの下がった窓)に臥して 夢自ら平かなり」

 奇跡的に助かった妊婦ふたりの証言や生き残った新聞記者の実録は当時、ちゃんと新聞にも報道された。

 ▼新資料が飛び出した

 しかし従来の証言、資料にはなった新しい資料が近年になってでてきた。
北京への留学生だった河野通弘は目撃者から貴重な談話を集めて記録を作り、平成七年に手記を残した。当日、かれは 北京にいて、通州方面に爆撃によるのか、黒煙のあがるのを見て、飛びあがった。

 「拓殖大学の先輩にあたる中山正敏を訪ねて東京からやってきたばかりの亀井実の安否だった」。
彼は「大使館の要請で通 州へ救援 と通訳に駆り出される」ことになった。
 通州で見た残虐な地獄。河野通弘は克明にメモをとった。同級生だった亀井は非命に斃れていた。脱線だが、ここにでてく る中山正敏氏。はてと思い当たった。以前に何度もお目にかかった日本空手協会の首席師範の中山氏のことではないか。慌て てページを捲ると、やっぱりそうだった。中山氏は三島由紀夫の空手の師匠で、何回か憂国忌で奉納演武を実演していただい たことを思い出した。

閑話休題。憲兵隊の荒牧中尉も記録を残していた。
 「事件当時の通州憲兵隊長は安部起吉憲兵少佐だったが、事件から一年が経過した昭和十三年八月、新たに荒牧純介憲兵中 尉が赴任してきた」(加藤前掲書)。
 この荒牧が、安部が作成した事件調書を筆写しており、終戦後まで長く保存し、昭和五十六年に私家版の『痛々しい通州虐 殺事変』を残していた。憲兵隊の原本が存在しないため、この荒巻私家版が真実を物語ることになる。
 また加藤氏は、この事件を外国人特派員はいかに報じていたかを探し当てた。フレデリック・ウィリアムズが『中国の戦争 宣伝の内幕』を書いていた。これは近年、田中秀雄氏が翻訳した。 
 ウィリアムズは「古代から近代までを見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう」。「最も暗黒なる町の名と して(通洲は)何世紀のあとも記されることだろう」と書き残していた。
 尼港事件と同様な近現代史の闇。
また一つ、謎の闇の奧に光りが当たった。

  それにしても、自虐史観に犯された日本経済界のお偉いさん達はこうした恐ろしさを知らないのでしょうね。もし、知っていたら、そんな恐ろしい人達の国に従業員を駐在させたり出来ないでしょう。

それとも、同類かな!

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