Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

わが青春のとき

2007年02月13日 13時32分17秒 | 邦画1971~1980年

 ◇わが青春のとき(1975年 日本 106分)

 監督/森川時久 音楽/佐藤勝

 出演/栗原小巻 山本圭 三國連太郎 小林桂樹 夏圭子 井川比佐志 村地弘美

 

 ◇小林勝『狙撃者の光栄』

 こういう時代もありました

 いやまあ、なんというのか…。こういうことをいったら怒られるんだろうけど、簡単にいってしまえば、人を人ともおもわないような夫に嫌気がさし、篤実な青年医師と不倫して妊娠し、その純粋だと信じる愛のために夫に三行半をつきつけて家を出る話なんだけど、こんなふうに書いちゃったら身も蓋もなくなるわけで。

 舞台は、昭和19年、朝鮮。夫こと三國連太郎は、闇稼業でしこたま儲けた観のある資本家。妻こと栗原小巻は、若く美しくどうして三國の妻になったのかが不思議な淑女。医師こと山本圭は、叔父が大逆事件で逮捕され、日本に背をむけてきた青年。栗原小巻は、常に上品で淑やかで、悲愴感にあふれ、三國連太郎も、病院の院長役の小林桂樹と同様、持ち前のあぶらぎりようで、山本圭は、相変わらず代表的左傾青年を演じてる。

 余談だけど、この頃の圭さん、髪さらさらで、なんだか妙にカッコイイんだ。

 ま、圭さんの話はともかく、この濃厚すぎる三角関係となれば、もうなにをかいわんやって感じだけど、それはそれで傾向がしっかりわかる。

 でも、

「無数にある映画の一本とすれば、これはこれでいいんじゃないかな~」

 とおもう。

 おもうけど、しかし、この映画は1971年に倒産した大映が、ようやく復活して、あらたしく歩み出そうとしたときの記念すべき第一回作品だ。

「もうちょっと考えようよ」

 と、誰もいわなかったんだろうか?

 実は、ぼくは、この映画を企画された武田敦さんにご挨拶したことがある。おだやかな紳士だった。おそらく、武田さんは武田さんなりに考え悩まれた末に、この映画の製作に踏み切られたんだろうけど、できれば、新生大映の皮切りには、一般的な娯楽大作か文芸大作を持ってきてほしかった。

 とはいえ、映画史においては、記念碑的な作品ではあるんだよね。

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愛という名の疑惑

2007年02月12日 13時29分58秒 | 洋画1992年

 ◇愛という名の疑惑(1992年 アメリカ 124分)

 原題/Final Analysis

 監督/フィル・ジョアノー 音楽/ジョージ・フェントン

 出演/リチャード・ギア キム・ベイシンガー ユマ・サーマン エリック・ロバーツ

 

 ◇めまい?

 ヒッチコックという監督ほど、多くの後輩たちからオマージュを捧げられる人はいなかったんじゃないか?

 そんなふうに考えちゃうのは、ヒッチコックのショットが鮮烈なせいだろう。もちろん、ヒッチコックに限らず、いろんな先達が多くの後輩から慕われているんだろうけど、映画のワンショットそのものを尊敬されている監督はめずらしい。

 ここでいう献辞というのは、ヒッチコックの撮ったショットと寸分たがわぬようなショットを撮ることだ。たとえば『めまい』の有名な「めまいショット」はスピルバーグが『E.T』で捧げた。この映画でも同じように捧げられてる、とおもうんだよね。『めまい』はそのあらすじもデ・パルマの『愛のメモリー』でオマージュされたけど、どうやら、リチャード・ギアもヒッチコックのフアンだったみたいだ。

 ま、そんなことからいうと、この映画は、おもわぬ拾い物をしたような気分にさせられた。

 キム・ベイシンガーはあいかわらず魅惑的で見るからに素敵だ。高校の後輩で、それも女性で、彼女の大フアンがいた。てことは、彼女は女性からも憧れられる雰囲気を持ってるんだろうか。それはともかく、こんな美女が誘いかけてくれば、そりゃあ、リチャード・ギアならずとも誘われちゃうだろ、ふつう。このあたり、つまり、前半の展開はとてもいい。

 ただ、終盤はいささか予定調和っていうか、2時間ドラマ的な展開じゃない?それは、ラストのワンカット、ユマ・サーマンがここぞとばかり演技をするんだけど、これなんか、いかにも、という印象が拭えないんだわ。

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グエムル -漢江の怪物-

2007年02月11日 12時20分12秒 | 洋画2006年

 ◇グエムル -漢江の怪物-(2006年 韓国 120分)

 原題/괴물

 英題/The Host

 監督・原案/ポン・ジュノ 音楽/イ・ビョンウ

 出演/ソン・ガンホ ピョン・ヒボン パク・ヘイル ペ・ドゥナ コ・アソン イム・ピルソン

 

 ◇괴물の意味

 怪物ってことらしい。

 読み方が、グエムルなんだと。

 ま、そういう単語もさることながら、民族的な感性の差を痛感したわ。ここで笑いをとるか~とか、こういう音楽の使い方をするか~とか、こんな終焉に持ってくか~みたいな所が、かなり感じられた。とはいえ、CGも音も凄いし、形容しがたいグエムルな(怪物的な)迫力はあったかな。

 洋弓の場面は、美しいしね。

 ただ、資料を読んでて「へ~」っておもったのは、製作者側がかなり反米を意識して作ったってことだ。米下院議会でも取り上げられるほどだったっていうから、アメリカ人にとってはかなり痛い感じがしたんだろうか?

 まあ、実際のところ、在韓米軍がホルムアルデヒドを漢江に流出させた事件が暗喩されてるとか、戦時の作戦指揮権についても暗喩しているらしい。英題からしてそんなことが匂うような感じもするし。

 ってことは、グエムルの正体は、敵国の象徴で、

「その敵国ってのは、いったいどこになんの?」

 とかって、ほんのすこし考えそうになったんだけど、やめました。

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友だちのうちはどこ?

2007年02月10日 12時14分55秒 | 洋画1981~1990年

 ☆友だちのうちはどこ?(1987年 イラン 85分)

 原題/KHANE-YE DOUST KODJAST?

 英題/Where Is the Friend's Home?

 監督・脚本・編集/アッバス・キアロスタミ 音楽/アミン・アラ・ハッサン

 出演/ババク・アハマッドプール ホダバフシュ・デファイ イラン・オリタ

 

 ☆イラン北部

 そのコケール村とポシュテ村。

 これといった筋立てはない。コケールに住んでいるババク・アハマッドプールが友達のノートをもって家に帰ってしまったんだけど、その友達は、今日も宿題を別の紙にやってしまい、先生から「今度、別な紙に書いたら退学だ」と脅されていた。

 ババクは、困った。で、友達のためにとなり村のポシュテまでノートを持っていこうとするんだけど、肝心の友達の家がわからない。結局、なんだかんだとあったりなかったりで、ノートは返してあげられず、ババクは友達のノートに彼が書いたように宿題を書いて提出する。先生は「よくできました」と友達を褒めてやる。っていうだけの、なんとも単純にして明解な話だ。

 けど、すんごくおもしろかった。

 淡々とした進行、地味ながら落ち着いた画面、余裕たっぷりの静かな音楽。

 どれをとっても派手さはなく、リアリティに包まれている。

 ちなみに、テレビのバラエティで「はじめてのおつかい」は、昔から人気があるらしい。子どもの初々しさと純朴さがたまらなく可愛く見えるからだろう。それは、世界中、どこの国でも変わらない。たしかに、この映画のように、子どもの意思を伝えようとする場面で歯痒くなるところはあるけれども、それもまた幼さと純粋さ故のことで、自分がそれほど画面に食い入っているという証拠なんだろね。

 それにしても、田舎の大人たちのなんと我儘で頑迷で無知で蒙昧で閉鎖的なこと。けど、それはなにもイランの田舎にかぎったことじゃない。世界中、おんなじだ。

 暗愚な大人は少なくない。かれらは、誰もが子どもだったくせに、子どもの頃の素朴さや正直さをどこかに忘れてきて、いっぱしの口をきき、子どものいうことなんか本気で聞こうともしない。困ったもんだけどね。

 あ、全然関係ない話なんだけど、イスラムの文化のひとつは窓の美しさで、この映画にも出てくる。でも、もうちょい映像で見せてくれたらもっとよかったかな~。あ、それと、友達の役をやったアハマッド・アハマッドプールは、ババク・アハマッドプールの実の弟なんだってね。

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8月のメモワール

2007年02月09日 12時12分34秒 | 洋画1995年

 ◇8月のメモワール(1995年 アメリカ 126分)

 原題/The War

 監督/ジョン・アヴネット 音楽/トーマス・ニューマン

 出演/ケヴィン・コスナー イライジャ・ウッド レキシー・ランドール メア・ウィニンガム

 

 ◇1970年夏

 スタンドバイミー親子版。

 ただ、なんとなく不思議な感じだった。

 ベトナム帰還兵の父親がPTSDに悩まされているのはわかる。病院で治療を受けていることがばれて小学校の職を失くされるのもまあわかる。貧乏でトレーラーハウスに住んでるけど、姉は賢く、双子の弟は正義感は強いんだけどひ弱でやっぱり半人前ってのもいいし、そんな家族をなんとか支えようとしている母親の覚悟もわかれば、当然のように登場してくる悪ガキ連中とその父親のいけすかなさもいいだろう。

 けど、良い役者と良い素材と良い舞台を手に入れながら、なんだか感動的にならないどころか、不安の方が大きくのしかかる展開にしているのは、なぜなんだろう?

 父親と子どもの未来を見据えて涙させるはずの映画なのに、ふしぎなことに、すべてのものが絡まっているようで絡まらせずにいるのは、いったい、どんな狙いがあったんだろう?

 たぶん、ぼくとおなじような疑問をおぼえる鑑賞者もいるんだろうけど、なんとも惜しい気がして仕方ないんだよね~。

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身代金

2007年02月08日 12時07分04秒 | 洋画1996年

 ◇身代金(1996年 アメリカ 122分)

 原題/Ransom

 監督/ロン・ハワード 音楽/ジェームズ・ホーナー

 出演/メル・ギブソン レネ・ルッソ ゲイリー・シニーズ デルロイ・リンド リリ・テイラー

 

 ◇誘拐のリメイク

 といっても、1956年製作の『誘拐』(監督/アレックス・シーガル)と同じ部分は、犯人が子どもを殺したら、身代金の50万ドルは犯人逮捕の懸賞金にするっていうところで、そのほかはほとんどがオリジナルとおもっていい。だから、わざわざ、原案ってのがタイトルされてるんだろう。

 にしても『誘拐』といい『身代金』といい、アメリカっていう国は、父親は戦うのだ、という断固たる主張があるのね。てか、身代金の受け渡し方なんだけど、携帯電話で指示が入り、それにしたがって町中を走らされるっていう場面は、この映画が最初だよね?もしも、ほかの作品で先にこういう場面が作られてるなら話は別なんだけど、これ以後、他の映画や漫画で使用されてる気がするんですが、その場合、著作権はどうなるんでしょ?

「ワンアイデアだからいいんだよ」

 ってことなのかしら?

 ほんとに?

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黒部の太陽

2007年02月07日 12時05分04秒 | 邦画1961~1970年

 ◇黒部の太陽(1968年 日本 196分)

 監督/熊井啓 音楽/黛敏郎

 出演/三船敏郎 石原裕次郎 宇野重吉 芦田伸介 辰巳柳太郎 志村喬 滝沢修

 

 ◇木本正次『黒部の太陽』

 伝説になってしまうというのは、こういう映画なんだろう。

 石原裕次郎は、生前、こう言い遺した。

「こういった作品は、劇場で観てほしい」

 版権を持っているのは石原プロモーションで、かれらは裕次郎の言葉をかたくなに守り、ついにテレビにもビデオにもせず、ときおり、 海外向けに短縮された1時間短縮バージョンが、各地のホールなどで上映されるくらいで、あとはいっさいなく、幻の超大作として、33回忌まで押し通してきた。

 けれど、東日本大震災が起こってまもなく、復興支援の一環として全国で巡業上映が行われ、短縮バージョンながらNHKのBSでも放送され、ついにBlu-ray/DVD化された。

 ということから、劇場で公開された完全版を現代の日本人のいったい何人くらいが観ているのか、よくわからない。

 さて。

 ぼくが観たのは、2007年4月、調布のグリーン大ホールだった。監督の熊井啓さんが、ぼくよりも数列前で鑑賞しておられた。以前、カメラの金宇満司さんに、トンネル内に水が迸り、三船敏郎も石原裕次郎も必死の顔で逃げ出す場面について聞いたことがある。

 大変だったそうだ。

 石原裕次郎も怪我を負ったらしいんだけど、そうしたいろんなことが重なり、この映画は、製作面でも上映面でも、邦画界で伝説のひとつになった。

 1本くらい、こんな作品があってもいい。

 (ここまでの文章は後の改訂で、2013年6月29日17時06分に記した)

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ザ・シークレット・サービス

2007年02月06日 12時03分04秒 | 洋画1993年

 ◎ザ・シークレット・サービス(1993年 アメリカ )

 原題/In the Line of Fire

 監督/ウォルフガング・ペーターゼン 音楽/エンニオ・モリコーネ

 出演/クリント・イーストウッド ジョン・マルコヴィッチ レネ・ルッソ ジョン・マホーニー

 

 ◎アメリカの呪縛

 アメリカ合衆国にとって、ケネディはどんな存在なんだろう?

 理想的な大統領だったんだろうか?冷戦のまっただなかで、そこらじゅうできな臭い煙が上がっていた時代に、アメリカ人らしい精神で理想を語ろうとしていたことに憧れがあるんだろうか?

 そんなケネディを暗殺されてしまったという事実は、アメリカ人にとって忘れ難い記憶なのかもしれないけど、この映画もまた、その暗殺の瞬間をひきずってる。シークレットサービスのクリント・イーストウッドにとって、かつて、ダラスでケネディを守れなかったという苦い過去は、そのまま、かれの人生の呪縛になってる。これは、そうした呪縛から解き放たれる過程を描くのが主題だ。

 もちろん、やっぱり音楽好きなイーストウッドだから、画面はよく作ってるし、老いてしまった警吏の悲哀はよく見えるけど、枯れた雰囲気でウイスキーを傾け、ピアノを爪弾くところがなんとも好い。けど、老いらくの恋の相手の過去が見えないのと、犯人を演じたジョン・マルコヴィッチの狂気が、もうすこし緊迫した形で現されるともっといいのに、てな贅沢な注文もしてみたくなる。

 呪縛の話に戻るけど、マルコヴィッチもまた呪縛に囚われてる。マルコヴィッチの場合は、かれを怪物に育ててしまったアメリカという国家に対する呪縛と憎悪で、そんなアメリカの象徴を守ろうとするイーストウッドとは、当然、決着をつけなくちゃいけない。

 ふたりは、そういう関係にあるわけで、けれど、マルコヴィッチが複雑なのは、自分を作り上げたアメリカは憎悪の対象でありながら愛すべき対象でもあることで、イーストウッドを冷酷に射殺できず、ときには助けの手を差し伸べてしまうのは、そうした感情の揺れを表現してるからなんだろうね。

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ひきしお

2007年02月05日 11時59分45秒 | 洋画1971~1980年

 ◇ひきしお(1971年 フランス、イタリア 100分)

 原題/Melampo

 監督/マルコ・フェレーリ 音楽/フィリップ・サルド

 出演/カトリーヌ・ドヌーヴ マルチェロ・マストロヤンニ コリンヌ・マルシャン

 

 ◇エンニオ・フライアーノ『Melampo』より

 メッサーシュミット?

 とおもえるようなドイツ軍の戦闘機が、とうに使われなくなった滑走路に打ち捨てられている島。そこで世捨て人のような生活を送っている男。飛行機も男も、もはや、現代では通用せず、島にあるというだけの価値しかなくなっているんだけど、そこにまた恋に破れた女がやってくる。

 棄てられ、社会に復帰できるとはおもえない無用の飛行機と男と女。ただ、男は飛行機にも女にも興味はなく、可愛がっているのは飼い犬だけ。女は犬に嫉妬し、犬を溺死させ、みずから首輪をつけて、男に甘える。男の、棒を投げ、拾わせるという調教が始まり、やがては、女を飼い犬と認め、あたらしい生活が始まるんだけど、男の息子が島へやってくる。

 男の妻が男をまだ必要とし、自殺未遂をしでかしたから家へ帰ってくれと。

 男は、帰らなくちゃいけない。帰るが、女は男を追い掛け、牝犬になったまま男の袖をくわえ、島へ戻ろうという。妻はそんな女に嫉妬し、自分もまた牝犬になろうとするが、男は拒否、島へ帰る。けれど、陸との唯一の交通手段であるボートが嵐に流される。長雨と湿気に残っていた食糧は腐り、食べる物がなくなったとき、男と女はようやく島を出ようとするが、残された移動手段は戦闘機だけだった。

 ふたりは、賭けに出る。

 世の中がふたりをまだ必要としているなら飛行機は飛んでくれるにちがいない。だが、離陸することは叶わなかった。

 いったい、この単純な物語の主題は何なんだろう?

 わからない。

 わからないけど、抑えに抑えた撮影と演技から、へたをすれば陳腐なSMまがいの作品になりかねないところに、製作者たちの芸術的な感性があるんだろね。まあ、実際、当時のドヌーヴとマストロヤンニは同棲してるわけだし、首輪をつけて、四つん這いになってたかどうかは知らないけど、ドヌーヴはどういうわけか、異常な性愛がよく似合う。

 ただ、ドヌーヴの場合、それが卑猥にならないところが持って生まれた気品というものなんだろね。

 主題曲は、もはや古典。

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無能の人

2007年02月04日 11時56分15秒 | 邦画1991~2000年

 ◎無能の人(1991年 日本 107分)

 監督/竹中直人 音楽/GONTITI

 出演/竹中直人 風吹ジュン 大杉漣 神代辰巳 山口美也子 原田芳雄 三浦友和

 

 ◎調布と多摩川の風景

 もうずいぶん、昔の話だ。ぼくは、調布市に住んでた。

 そのとき住んでたマンションの並びにつげ義春が住んでた、らしい。

 伝聞の情報で、当時、すぐ近くに住んでた漫画家の友達から聞いたものだ。

「てことは、あれかな、無能の人を描いてた時代かな?」

 とかいうやりとりを交わした記憶がある。

 つげ義春の漫画は何冊か持っていた。文庫本の漫画だったから、つげ義春のびっくりするくらい細かな描線を味わうにはちょっと物足りなかった。当時のぼくは、もう大学を数年前に卒業していて、漫画を愉しんでた時代とはかなり隔たりができちゃってたけど『ガロ』や『COM』に描いてた人達はなんだか幼馴染のような感覚があって、なかなか手放す気にはならなかった。そんな漫画の中に、つげ義春の作品が数点あった。

 つげ義春の漫画はたしかに陰気で、ケレン味もなく、貧相さが漂ってたけど、いじましさと痛々しさと優しさもあって、妙にリアルだった。この映画の原作もそうで、他人事とはおもえないような内容だった。竹中直人がつげ義春好きなのはとてもよくわかるし、ガロの世界をしみじみと描ける人のひとりなんだろな~っていうような好感も感じられた。

 河原の石を拾ってきてそれを売るという商売がほんとに成り立つかどうか、そんなことはこの際どうでもよくて、そうした気持ちになってしまうほど人生に疲れて、大好きな漫画を描くだけの気力が失われてしまって、あとは現実逃避しか残っていない哀れさを感じられればそれでいい。

 石を売るというのは、要するに河原に転がってしまった人生を売るということに近く、人間が金銭面はもとより精神面でどん底に落ちてしまったときには、もはや、わずかな駄賃で客をおぶって河を渡るくらいしかできることはなくなってる。哀しいけど、それが現実ってものなんだろう。

 でも、漫画家は、漫画を描けなくなったら石ころくらいの価値しかない。

 石ころが人間として蘇るには、石ころを愛してくれる人じゃなく、その人そのものを愛してくれる人の手助けがいる。そんな石ころが悶え悶えて、苦しみ続けるさまを、竹中直人は上手なコミカルさで、哀愁たっぷりに描いてる。

 カメオ出演の人達も、そうした感性の持ち主なんだろね。

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13デイズ

2007年02月03日 11時52分41秒 | 洋画2000年

 ☆13デイズ(2000年 アメリカ 145分)

 原題/Thirteen Days

 監督/ロジャー・ドナルドソン 音楽/トレヴァー・ジョーンズ

 出演/ケヴィン・コスナー ブルース・グリーンウッド スティーヴン・カルプ

 

 ☆1962年10月14日、キューバ危機

 当時の記憶は、ぼくにはない。

 団塊の世代の人達も、たぶん、おぼろげなんじゃないかな。

 それくらい時代は昔になっちゃうんだけど、当時のおとなたちは、いったいどんな気持ちで、10月27日の「暗黒の土曜日」を迎えていたんだろう?第三次世界大戦が勃発するっておもってたんだろうか?おもってみれば、年上の人達とこの時期の印象について話をした記憶がない。それほど、キューバ危機が遠い話だったとはおもえないんだけどな。

 ま、現実の歴史はともかく、ケヴィン・コスナーは『JFK』の印象が強いもんだから、どうしても、連続して観たい気分になる。2本立てで上映してくれればいいのにね。そんな希望はさておき、キューバ危機と四つに組んだ大作のないのが不思議だったんだけど、いいとこ突いてるわ、ほんとに。あ、国連大使を演じてたマイケル・フェアマンは、好い味を出してた。それと、絵的にはどうしてもキャラクターが中心になって、すこしばかり外連味が足りない印象は受けるけど、実際に局地戦が始まったらもうダメなわけだから、当然だよね。

 ただ、さっきも触れた10月27日、キューバの上空を偵察中の米空軍の偵察機がソ連軍の地対空ミサイルで撃墜されたのは歴史的な事実で、このときの搭乗員ルドルフ・アンダーソンの名前がタイトルロールでキャストの一番目に来てたのはさすがアメリカって気がしたわ。

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コンゴ

2007年02月02日 11時49分56秒 | 洋画1995年

 ◇コンゴ(1995年 アメリカ 109分)

 原題/Congo

 監督/フランク・マーシャル 音楽/ジェリー・ゴールドスミス

 出演/ディラン・ウォルシュ ローラ・リニー アーニー・ハドソン ティム・カリー

 

 ◇スピリット・オブ・アフリカ

 唐突ながら、コンゴの美人の条件はお尻らしい。ヒップの大きな女性ほど美人だとされているんだそうで、かの地の女の人たちはみんな、必死になってお尻に肉をつけようとしてるとか。生命の根源的なちからを現代でもなお崇拝しているということになるんだろう。それだけ、アフリカはまだまだ活力があるって話かもしれないし、原始の息吹を伝えてくれてるのかもしれない。

 で、この映画だ。

『地獄の黙示録』をちゃっちくしたようなセットで、すさまじいB級大作であることは世界的な認識かもしれないけど、もしかしたら、現代のCGで撮り直し、デジタルサウンドの大画面で観れば、それなりにおもしろい映画になるかもしれない。ただ、ゴールドスミスの音楽は意外に好いから、そのまま使ってほしいけど。

 ま、この原作が書かれたのは40年も前で、日本でも、超古代史がちょっとずつ知れ渡るようになっていて、同時に、漫画とかでも、ニューギニアとかボルネオの奥地に未開の集落があって、さらに奥地には超古代の遺跡があって、そこには遺跡を守っている民がいて、神として崇めている動物もいて、訪れた探検隊は歴史と自然の荘厳さに驚き、地球愛にめざめた主人公はなぜか野性味のある色男で、探検隊でいちばん美しい学者だったりする女性と恋中になって、いつまでも現代文明と経済をひきずってる悪賢い野郎を、原住民の肩をもって追い払うかやっつけて神的動物と涙の別れをするってな話が雨後のタケノコのように乱立してた。マイケル・クライトンの原作はたぶんもう少し面白いんだろうけど、どうなんだろう?

 それにしても、こうした映画は、邦画ではとうの昔に製作されてる。

 そう、『キングコング対ゴジラ』って、ちがうか(笑)

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花様年華

2007年02月01日 13時02分49秒 | 洋画2000年

 ☆花様年華(2000年 香港、フランス 92分)

 原題/花様年華

 英題/In the Mood for Love

 製作・監督・脚本/ウォン・カーウァイ 音楽/マイケル・ガラッソ 梅林茂

 出演/トニー・レオン マギー・チャン レベッカ・パン スー・ピンラン   ライ・チン

 

 ☆二人四役

 不倫してる相手の配偶者をひとり二役ずつ演じてるから、そうなる。

 で、この人物的にも内容的にも難しいながら喩えようもなく美しい作品は、『欲望の翼』の続編とされてるみたいなんだけど、最後に出てきたトニー・レオンが、天井の低いところから引っ越して結婚したのかって想像するものの、ほんとうに話が続いてるのかといえばそうじゃないし、マギー・チャンの役名のほかに共通してるものってあるんだろか?っていうくらい、続編への期待が散った。

 けど、そんなことは、どうでもいい。映像も、音楽も、A級。いうことなしってくらい圧倒された。

 ただ、1962年の香港はこれよりもっと猥雑で、多種多様な文化や恋愛が坩堝のように混じり合ってたんだろうな~とおもうと、マギー・チャンがトニー・レオンのホテルを訪ねていく場面は、その映像といい、編集といいは、まじに圧巻だった。小説家志望の夫トニー・レオンが、となりの夫人マギー・チャンに共同執筆を頼むんだけど、その心情も、なんていったらいいのか、まあ、痛いほどよくわかる。

 っていうのも、小説を書くっていう作業は徹底した個人作業だとおもうんだけど、でも、おそらく恋をすることによって感情が増幅され、物を書くというより、物を創るという創造的な喜びが盛り上がるんだろうし、その非常に個人的な作業の芯みたいなものを相談する相手は、おそらく、恋をしている相手にしかしないし、できないものなんだろう。

 それと同時に、恋の相手にしても、誰にも相談しないし、できないような、相手のいちばん大切にしている創造の部分において、自分ただひとりが相談されてる、もしくは個人作業を共同作業にしてほしいといわれてるんだと理解したとき、それはおそらく、恋の相手としての喜びに満たされるものなんじゃないかなと。

 だから、そうした心情が溢れんばかりに交錯して、逢い引きの場面になっていくんだよね。てなことを考えつつ、さらに映画を観れば、不倫という抜き差しならない関係に陥りながらも、プラトニックでいようとする葛藤の中にはいったいなにがあるんだろう?と、ウォン・カーウァイは疑問を投げかけてるように感じられる。

 夫婦という関係に絶望し、配偶者を否定したとき、自分が求めるものは、まずもって心の平穏で、会話をする相手がいないことや相談する相手がいないことほど、この世に生きていて寂しいものはなく、それはまるでカンボジアの密林の中で、人間が去ってしまった後、いつか訪れる者を黙って待っていたアンコールワットの彫像のようなものじゃない?ってな投げかけが画面から受け取れるんだけど、どうなんだろ?ま、新嘉坡でブンガワンソロが流れた時は嬉しかったし、映画『長相思』の『花様的年華』が流れ、梅林茂の『夢二のテーマ』にナット・キング・コールの『キサス・キサス・キサス』と、哀愁のこもる曲ばかりで、たぶん、この映画は、好きな人にとってはたまらなく好きな映画なんだろな~。

 ちなみに、題名の花様年華ってのは、花のような歳月って意味らしいんだけど、花と華の字があるように、flourがだぶってる分、女の人が最も輝いている時期ってことになるのかもしれないね。それがいくつかなんて野暮なことは、いったらあきまへん。

 で、ひさしぶりに観直したら(2017年5月15日)ちょっと目を奪われた。だって、お、ふたりが小説を書くために密会していた部屋なんだけど、番号が「2046」だったんだ~とね。なるほど、これで『2046』に繋がっていくわけか。気がつかなかったな~。

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