8月31日。感染下の関西空港はローカルな空気が漂う。いや!、本来はローカル航空としてデザインされたのではないか!?。
開港したのが1994年だ。当時バブル経済下の建設期の状況を思いだしていた。この時期の日本の建築設計界のトレンドは、関空の設計をしている世界的に著名な建築家レンゾ・ピアノの日本の現地事務所で勉強し、世界の最先端を走るというものだった。
私が推測するのに、彼と日本側の思惑は大いに異なっていたのではないか。
ピアノ「日本の中心は東京だから、ローカル空港をつくるんだろ!。だって滑走路が1本しかないじゃないか!!」
日本側「まあそうなんだけど、関西の拠点ですから飛行機の発着場をもっと増やしてくださいよ!!」
ピアノ「じゃ横に伸ばせばいいじゃん・・・・。えっ!、そんなに伸ばすの?。歩けないじゃん!!!」
日本側「大丈夫!、日本にシャトルの技術があるからこれを使えばよい!!!」
ピアノ「長大な横長の建築じゃん。なんだろう、これは!。滑走路が1本しかないから所詮ローカル空港だよな。ローカル空港にしては変なデザインだけど、日本の若手設計技術者がタダで働くし、まあええか・・・」
そんなやりとりがあったかどうかはわからないが、この空間量から判断すれば、私にはローカル空港のデザインに見える。つまり空間の全てが小さいのだ。
例えば、トイレの数は少ないし、男子トイレなど大3ブースに小4箇所しかない。感染期の今なら調度よいが、稼働したら当然列ができる規模だ。因みに隣のPeach等が使用する第2ターミナルは、少なくともこの3倍の仕様を持っている。LCCが本格化するまえの設計なのだろう。
それに通関すると、食事ができる店がほとんどないのもあきれる。今はさらにひどく、後から増設した飲食ショップもすべて閉店している。
トルコのアタチュルク国際空港は、通関後のスペースが巨大なショッピングモールになっていた。フィランドの空港も巨大なショッピングモールだった。これらと比較すれば、やはり関空はローカル空港の仕様だ。
日本人は関西の拠点空港として発注したが、レンゾ・ピアノは1本の滑走路しかないからローカル空港として設計し、バブル期の後押しもあってトレンドな建築だと日本人には理解されたのだろう。
さて、またフィリピンの混沌とした世界にゆく・・・。Cebu Pacific航空は、1割にも満たない乗客を乗せて920hPa台風11号の鼻先をかすめ、雷光を眼下にみながらフィリピンへ着いた。現地時間午前1時を回っていた。フィリビン政府の感染バスポートでは、Express laneだから簡単に通過。あら税関はどこだったと記憶すらない。すんなり通過した空港の外は、真夜中なのに相変わらずフィリピン固有の人々と車の街の雑踏。そんな光景は前回と変わらない。
今回は、すこぶる暑い。この暑さに慣れないと動けない。慣れるのに三日はかかるだろう。フィリピンも雨期だけど雨が降らないと猛暑だ。
iPhon13pro