Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

エッセイ710. 明治期小樽の街の姿を復元してみよう、余話。

2024年04月24日 | field work

 明治期小樽の街の姿を、どこから復元するかと考えた。現在の南小樽駅の山側に広幅員の道路がつくられ、ここに小学校、郡役所、警察署、納税事務所が置かれていたからだ。このことが小樽の史料からわかった。しかもここは、明治政府が新しい街をつくろうとしていた形跡がある。ならば量徳小学校から復元しよう。
 明治の最初につくられた量徳小学校は現在廃校になっている。その後には小樽市立病院が建てられている。おおっ!、「小説:小樽の翠」で翠達が勤めている病院ではないか。こういうのを何かの縁というのだろう(*^▽^*)。
 量徳小学校の写真は同校の出版物にもある。量徳小学校の絵図もある。といってそれでは3DCGはできない。やはりX、Y、Z軸で寸法化された建築図面が必要なのだ。もちろんそんなものは存在しない。そもそも最初の校舎は明治30年代に消失してしまった。
 そうなるとこちらとしては、最初の姿を是非とも復元したくなる。明治の文明開化の時の小学校建築はどんなんだったか?。そして建築設計図を復元し3DCGにすることができた。その論証過程は私の論文で書いたので、ここでは割愛する。
 そしてこれが明治初期に建てられた量徳小学校の姿である。私が一番関心を持ったのが、この様式が擬洋風建築様式である事だ。擬洋風とは明治初期の文明開化で西洋建築の設計方法が輸入されたが、これを日本の大工はみようみまねで西洋建築風にしてしまったのだ。その結果洋風とも和風とも呼べない独自の新様式をつくってしまった。日本の大工のみようみまねの精神がすごい。
 そんな典型例を見たければ松本市の開智学校にゆくとよい。正面玄関2階テラスの天使の像をよく観察されたい。中性であるはずの天使にオチンチンがついているのだ。西洋のことなど知らない大工の立石清重は、当時の東京日日新聞からとったということ事は藤森照信さんの講義で教わった。
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