思い切って

このブログを思いの丈を思いきっり書こうと決めて書いてきた。するといつの間にか、教育をはじめ政治やメディアまでほとんど批判的になっている。場面を思い出して書くので、自分でも(えええっらそうに)と自己嫌悪の気分になることがある。〈人の悪口は言うもんでない)とか(人の言動を良く取るも悪く取るもその人の人格しだい)この言葉は,既に天国へ行ったおふくろさんが事あるごとに、言っていた言葉だ。確かに小泉さんにしろ誰にしろ、本人は他人のためと思って最善を尽くしているはずだ。違いないのだが、どこが違うのか。それは個人の価値観や感覚の違いだけだろう。これはお互いに指紋のように固有のものだから仕方ない。
だから、(お互い様)(持ちつ持たれれつ)の関係なのだろう。お互いに思っていることを言わなければ世の中の進歩はない。だから今まで通り、(思いっきり)+(思い切って ) 書こう。
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気になる言葉使い

耐震偽装や特別会計等の摘発があったとき、「制度は性悪説で作らなければいけない」と関係者や識者と言われる人のコメントを時々耳にする。
何でこんな時、歴史的な哲学用語を使うのか。論じてる内容の次元が違う。
人間の根源的な性質を論じる言葉であり宗教や哲学の分類にも用いられる用語であり、犯罪や間違いの原因を指摘する言葉ではない。偽装を偽装した言葉で論じる変な話。
同じように(範疇やカテゴリー)の間違いも良く耳にする。範疇はカテゴリーの訳だが、価値観の領域を言った用語で普通使われる(範囲)の意味ではない。誤字脱字の多いドジな私も気になるものはある。だから「お互い様」はいい言葉。
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暮らしと挨拶

挨拶運動の呼びかけが悪いとは思わないが今1違和感はある。勧めている人自身の挨拶の感じが良くない事が多いから。
それはそれとして、本当の意味の礼儀として挨拶は大切だと思う。子供の頃親から他人に対する挨拶と同様家の中でも,「いただきます」「ごちそうさま」をはじめ「行って来ます」「ただいま」「いってらしゃい」、親への「お帰りなさい」なんかは玄関まで出迎えるのを当然のこととして求められた。それは礼儀と言うより生活習慣だった。(教養のない貧乏な家でもどこででもそれが普通だった。)
今、それはどうなっているだろう?
食事の時家族がそろわなかったり,出かけや帰りも、ばらばらで家の中で挨拶するチャンスがひどく減った。生活習慣どころでない。日ごろの一家団欒は死語か。
要するに家族が一緒に暮らしにくくなっている。(暮らし)の語源は調べていないが、草冠や、日の入っているのを見ると太陽の動きと関係あるのではないか。だから難しい。
こういう中だからこそ、挨拶が大切ともいえるが、その前提になる条件が失われて久しい。だから(挨拶)が(御 挨拶)や「いやみ」になりがちだ。この辺まで壊れてる。

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