個々の情報と全体的な情報

世は情報社会といわれ情報が溢れてる。情報を教育に置き換えて考えてみたい。
教育原理の一つに、子供は個別の教育よりその子供の全体的な教育の枠組みで育つと言うのがある。情報に置き換えると個々の情報より情報全体の関係でで作られる意味が人々へ影響を与える情報として伝えられると言うことになる。
秋田の殺人事件を見た人は彼女のの内側に立つだろうか批評家のように外側に立つだろうか。いつの間にか外に立っていないだろうか。
地球が壊れかけており、あちこちで大変な被害の出ていることは多くの人が知っている。しかし自分達が加害者だと言う加害者意識はどれだけ持っているだろうか
二酸化炭素を地球に排出してる経済大国の日本が太平洋上のツバルと言う国を海中に沈めていると言う関係は否定できない事実だ。誰も加害者にはなりたくないのは事実だが、情報の全体的な関係からはそう思わせないものになっている。情報が教育として考えたら、秋田の事件も地球環境の破壊も気候の変動も我々を無関係か被害者の立場に立たせる。彼女を壊したものや地球の加害者の立場に立つのは難しい。そうなっていないか。実際はそれどころではなく、犯罪の背景や地球の破壊現象そのものから目を反らすものになってはいないか。人々にとって大切なものから目をそらすものになっていないか。
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