世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
いい先生の見分け方
(自分のことは棚に上げ)長い教員生活の中でいい先生の見分け方は簡単で、(子供が先生を追う)かどうかをみればいい。
休み時間やちょっとした立ち話の様子を見て、子供が先生を追っかけている素振りがある場合はほとんど例外ないぐらいいい先生で裏切られることはなかった。むしろ管理職や同僚や父母の評価のほうが事実と異なり期待を裏切られることが多かった。子供は教師を追って、勉強外の話題やのこちらの過去や現在の個人的なことに関心を向け、場合によっては、自宅を訪ねてくる。教育の大切なものがその行動の中にあるのだろう。大人より子供のほうが厳しい。校長先生や教頭先生はかつての担任時代でも、子供に追われる先生はほとんど見た事がない。(管理職になって人気取りで自分を逃げ場にしている人も見かけるが子供が追っかけているのとは違う。見れば分る。)多くの学校長の教育者としての個人的な資質は教師の平均値を下回わっていたと思う。いい教師はほとんど本能的に、大人の論理より子供の論理を望み優先する。それを変えるのは宗旨替えや転向より難しいだろう。価値観が皮膚感覚になっているから。学校長の最高責任者論の形式と実際の区別をつけないから、今学校は偉いことになっている。子どもが大人を見るような厳しい目を大人も持つことが求められている。
要するに、教えるよりまず学べ、しゃべるよりまずより聞けだ。
休み時間やちょっとした立ち話の様子を見て、子供が先生を追っかけている素振りがある場合はほとんど例外ないぐらいいい先生で裏切られることはなかった。むしろ管理職や同僚や父母の評価のほうが事実と異なり期待を裏切られることが多かった。子供は教師を追って、勉強外の話題やのこちらの過去や現在の個人的なことに関心を向け、場合によっては、自宅を訪ねてくる。教育の大切なものがその行動の中にあるのだろう。大人より子供のほうが厳しい。校長先生や教頭先生はかつての担任時代でも、子供に追われる先生はほとんど見た事がない。(管理職になって人気取りで自分を逃げ場にしている人も見かけるが子供が追っかけているのとは違う。見れば分る。)多くの学校長の教育者としての個人的な資質は教師の平均値を下回わっていたと思う。いい教師はほとんど本能的に、大人の論理より子供の論理を望み優先する。それを変えるのは宗旨替えや転向より難しいだろう。価値観が皮膚感覚になっているから。学校長の最高責任者論の形式と実際の区別をつけないから、今学校は偉いことになっている。子どもが大人を見るような厳しい目を大人も持つことが求められている。
要するに、教えるよりまず学べ、しゃべるよりまずより聞けだ。
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