学校の対メディア窓口一本化

教員になって間もない40年近く前、埼玉県で勤めていた学校のあるクラスで、子供達が担任とうまく行かず教室の入り口をいすや机で封鎖した事件があり、それを週刊誌が聞きつけ《小学校でもバリケード》と報道した。連日職員会議をした。その中で学校長から、記者が取材に来たときの対応は「全て校長か教頭がする」の話があった。ちょとひっかるものはあったが、混乱を避けるためだと納得した。それは東京に来てからも全ての学校でその約束事になっていた。
最近警察をはじめ市町村の行政機関会社などの法人も、メディアの対応は基本的に学校と同じであることがわかった。メディアを強力な道具にした社会だからこれは大変なことだと思った。メディアも利用し利用されてるいることになる。我々視聴者から言うと、2重にコントロールされその中に閉じ込められている。メディア対策を優先した^情報提供だから、事実は恣意的にならざるをえない。たとえば埼玉時代その職員会議は管理職二人はまじめでいい人だったが原因や対策を話し合う中では単なる司会者以上は果たせず具体的な原因解明や対策を提起するのは平の教員だ。それは当事者の子供や教師のことををほと知らないから当然であり疑問を持つ者はいない。学校の仕事は分業されているところもあり出張や学校事務が山ほどある管理職が教室や子どものことが分らないのは管理職の責任ではない当然だ。ただ子供の情報を持てない人から取材しメディア対策としての話を聞いて情報として流すのだから、メディアが掴んだ情報は事実とは遠いものになることはさけられない。だから視聴者はガさネタのなかに閉じ込められることになる。こんな仕組みだから本格的な子供対策いわんや地球対策など遠い遠い話になるのだろう。メディアの人に言いたい。取材するなら、メディア対策の話を聞いてくるのではなく、もう一歩情報の源に迫ってほしい。ジャーナリストとはそういう仕事ではないか。現実は子供から目をそらした教師や管理職に似ている。
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