「大同小異・小異を捨て大同につく」そしてつぶやく

アメリカとイラク、北朝鮮と日本、自民党と共産党、右翼と左翼、資本主義と共産主義、資本家と労働者、保守と革新、勝ち組と負け組み、金持ちと貧乏人、親分と子分、上司と部下、先生と生徒、医者と患者、健康と病気、生と死、戦争と平和、護憲と改憲、神と仏、大人と子供、男と女、若者と老人、
違いはどこか境はどこだ?立場や利害の区別はどこでつけるのだろう?とよく分らないことがある。確かに違いはあるが共通点の方ががはるかに多いのではないか。激しく対立しているように見えても、全体から見れば括弧でくくれる小さな違いや仲間の小競り合いのようなものでははなかろうか。同じ根っこの木だって1枚1枚形は違う。違いを基本にするか共通点を基本にするかで考え方や行動は反対になり言葉と仲間が作られる。それはそれでそれぞれ正当性はあるが大局を見失ってはいけない。物事が大同小異なら小異を捨てないまでも大同をより大事にしなければならないのは当たり前。さもなくば両者のの根を絶やし生命の仕組みを壊す。これが理性というものだ。理性は小難しいしかめっ面や怒った顔ではなく、さわやかで穏やかな笑顔をたたえた(こんな表現あったかな?)ようなものだろう。この当たり前の判断ができないのはすでに全体を見失い余裕をなくしているからに違いない。
ジダンにしろその相手にしろ、露鵬と千代大海にしろ言い分はあるだろうが上記の大同小異の関係を見失ってしまった。

地球温暖化の絵の中に上記の相対立している2つのものを描くと似たもの同士にならないか。(巨人と阪神ファンのように。)両者野球が大好きで同じ球場に行き向かい合って大声上げている。台風でも上陸すれば野球どころでない。所詮持ちつ持たれつの運命共同体の関係にある。ファンの居酒屋でのバタバタしてない小競り合い程度なら負けておこう。最近はテレビの中で、国会の中で、教室、茶の間、町のあちこちまで興奮し青筋立てたバタバタした争いに出会う。今日も国のそして内外のバタバタぶりとドタバタ笑いがテレビで朝から晩まで報道される。それをバタバタ見るはめになる。実際多くの人はそのバタバタぶりも見られぬほどバタバタしているだろう。バタバタのスパイラル。私は老人性の喘息でバタバタできない。老人が増えるから世の中落ち着くかな?と思うとどうしてどうして、最近知り合いがバタバタ逝っちゃうよ。蛇足になるが、このところ民主主義も選挙も世論も言葉も支配の道具になっている感じがする。こんな衆愚政治より立派な王様の王政のほうがいいのかななんてつい思ってしまう。「裸の王様」だって最後は子供だけは正直にものを言う。最近は子供も役人や町の人のようだ。こんなことを考えるのもまた「バタバタ思考」の癖なんだろうな。
(全く自分もよく躾けられているもんだ。)しょうがないからまずは《言葉》 特に【会話】 を取り戻そう と。隣を見ると女房もパソコンだ。はー~あ? と(あくび)やっぱり現実は厳しい。(しばらくたってから)私「買い物に付いて行こうか。」妻(少し嬉しそうな声で)「うん」(ちょと間おいてから)「行こうか」だって。

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