【教育原理】と実際

 このブログで教育原理の言葉を時々使ってきた。教育原理で言いたいこは、子どもを教育する情報は専門家や行政の権力者が持っているのではなく、個々の子どもが持っているのであって、その情報なしに適切な教育はありえないと言うこと。 

 医師は検査や診断なしに治療したり処方箋を出したりはしない。医療と教育を合わせたような療育(治療教育)と言う分野がある。児童精神科では医師の診断と指示に基づきカウンセラーによって保護者への助言と同時に子どもへ行動療法や心理療法を行う。養護学校や障害児学級でも内容的には同じようなことを行うし、療法などの言葉は使わないが通常学級でもその手法は用いられる。医療も教育も子どもの状態を把握し分析してから治療や指導をするところは共通した原理だろう。

 ところが医療の分野ではありえないことが教育の分野では、指導方針(医療の治療方針や処方箋に当たる)が子どもから最も遠いところから権力と知名度の権威によって出され、強制される。教育再生会議では学力テストや教育バウチャー・教師の免許の更新制などで、学校間の競争を強め国の方針の徹底よって学力をつけたり規範意識を高めようと論議している。これを医療に置き換えると、病院の事務員や収支を預かる理事者が診断なしに処方箋を出すようなもの。医療ではありえないこと。

 ところが教育の世界では実際にに行われて来たし、その傾向はさらに強まっている。教育は文化や科学の発展と相俟って教師(大人)中心から児童中心に発展してきた。日本は現在も法律的にはその方向になっているが実際は戦後の10年間ぐらい配慮された程度で、昭和28年の教育委員の公選制の廃止以来、中央集権的な教育行政の方針が次々出され、その結果、問題が発生するとさらに上意下達の方針が強められてきた。これは殆ど伝統的とも言え、教育史をさかのぼっている感じだ。

今日も同様で、不登児や発達障害児の増加、いじめ、基礎学力や体力の低下、健康疎外などの現象が社会問題になると、実態把握や原因の分析をすることなく、従来と同様、子どもから離れた上意の権力を強め方針を強化する事により乗り切ろうとしている。結果は今まで同様、教育原理の基本を無視した暴走に拍車がかかるだけだろう。

 お百姓さんは、稲の育ちを見て手入れの仕方を考える。大工さんは目の前の木を見て作業を考える。稲や木が解決の情報を発し教えてくれる。稲が枯れそうだったら、その原因によって手入れは異なる。

 学力テストで競争させ学力は高まるだろうか。不登校児や発達障害児への影響はどうか?もしテスト自身が受けられない子どもは増えた時、全体的な学力は上がったといえるのだろうか?(履修問題と同じ因果関係にならないか?)

 子どものいじめや親の虐待や育児放棄と同様、国の教育のネグレクトが堂々とエスカレートし保護者もメディアも学校長始め学校現場や地方の教育行政も対応できないでいる。

 教育の情報源が子どもであると言う【教育原理】を履き違え、間違っても、(権力や名声を持っていても)医師の資格や経験の無い人によって診断なしの治療や処方箋がまかり通るのと同じようなことを、子ども達に教育と言う名で実際にするのは、いいかげんにしてほしいものだ。

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