やっぱり、教育再生会議

 以前、集められた教育再生会議のメンバーをみて、教育を専門的・指導的な役割を果たす資格はあるだろうか?と疑問を呈した。

 今回いじめ対策で、緊急提言を出した。
①いじめに加担したり見逃した教師への処分
②いじめた側の子どもの出席停止を積極的に行う。
③問題を起こした学校への支援チームの派遣 討議の中では、         体罰の容認論も出たそうだ。

 一方政府はいじめの実態の再調査とスクールカウンセラー配置の予算増額を緊急にするらしい。上記の政府や再生会議の提案は予想していた通りで「やっぱり」が実感だった。
 結論的にはいじめをさらにこじらせるだろうと思う。緊急措置だけしか報道されていないので、原因や背景を如何捉えているかは推論するしかないが、これではほとんど原因の分析ができていないと思われる。
 細かくは書かないが1つだけ書くと、今の構造的ないじめが学校で頻繁に見られるようになって20年近くなる。それは、子どもを取り巻く人間関係や子どもの日々の暮らしが根っこから変わってきていることが背景にあった。いじめの様態もいじめられる側のダメージのレベルも周囲の反応も大きく変わってきていた。(今日の危惧は現場ではすでに私が教員になった1965年ごろかなり多くの教師が研究会などで話されていた。)それから何十おたった現在、現実を前にして対策を考える当局や再生の委員も、自分が子ども時代の(少なくとも4~50年前のいじめ)を念頭において対策を考えている。質的に全く変わってきていることが分っていない。
 まずやらなければならないことは、今の子どもの心と気持ちに大人がしっかり目を向け見ること。そうすれば如何に大人が(特に教育行政は)子どもから目が離れているかが分る。そして既に目の離れが構造的になっていることに気が付くはず。
 緊急の対策は平凡だがすぐに出せる。本気なら、効果もかなり早く表れるだろう。(子どもはそのぐらい敏感な存在)
そっぽを向いたまま、お金をいくら掛けても「死ぬな!生きろ!」と声を掛けても子どもの心はつかめない。お金や、掛け声で解決できない事がわかれば、お金や一銭も要らないし大声もやっているぞと言わんばかりの派手な対策も必要ない。心は心でしか捉えられない。

 

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教育学者?

 昨夜、どこかのチャンネルで、「教育の自由競争」をテーマに2人ずつ賛成と反対に分れ激論?番組があった。後方の一般市民も意見をいいテーマに参加するというもの。

 今まで、このブログで、今日の状況下で学者や専門家は何をしてるのかと指弾してきた。昨日の議論は教育系の大学教授によるものだった。

 話す態度や賛成・反対の立場はさておき、双方中身が無い。国会論議と同様、言辞が優先され相手を言い負かそうという意図がありありと感じられた。私が聞きたい中身は教育される子ども達の発達や成長との関係がどこかに吹っ飛んでいる。むしろ後ろに座っていたお母さんの言葉の中に期待する中身が含まれていた。私は教育学者は「教育の自由競争」のテーマを、まずは子どもの発達の観点から学問的(教育学や心理学)に考えを述べてほしかった。1時間番組だが最後まで聞けなく後味の悪いものだった。話すのを聞いていると双方、頭に子どもの動きや顔が映っていないようだった。中にはペテン師顔負けの身振り・話しっぷりの「教授」もいらした。最低落ち着いて話してほしい。
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年寄りっ子の三文安(教員養成)

 「年寄りっ子の三文安」とはお年寄りに可愛がられ、仕込まれると教え方が旧式でその子は、(実際には)新しい時代に対応しにくく大変だと言う意味だろう。
 
 学校現場に来る新任教師は丸1年は(喪に服するような)新任研修が課せられる。着任した学校では担当指導官が当てられ決められた計画に沿って一方的に指導される。教育委員会でも年間数10時間の(詰め込みといえるような)指導主事や地域の管理職による一方的な研修を受ける。新任の教師は表向きとは別に影で殆ど例外なくといっていいほどぼやく。

 実際この1年で自殺や心を病んで休職したり、教職に見切りをつけ辞める若い先生は予想を超えて多い。

 校内の指導教官の多くは、学校長からの個人的な依頼で任されれ、年配の教師が多い。私の経験したかなり多くは、指導が形式的で旧式な教師が多かった。実際その指導教官の学級ががたがたしているケースも珍しくない。指導教官を終えすぐ退職したり転勤したりする例も少なくない。

 教育委員会の指導主事や地域の管理職による指導は、目の前に子どもがいないからなおさら【理論的?】になる。もともと指導主事や管理職は子どもへの指導の実践では(?)の教師が多いのが一般的だ。指導主事や管理職の登用試験は教師としての見識や実績より、上部の文科省や都府県の教育委員会の方針をどれだけ身につけ、それに以下に忠実に従うかを優先させて決める。

  外部で見ているのとは違って、管理職登用試験を受けている人は学級の子どもや父母、同僚からの信頼は薄い先生がが一般的である。唯、逆にその学校の管理職や地域の教育委員会の信頼は高い。(当然といえば当然で所詮、仲間を作ったりその仲間に入ろうとする教師同士の関係なのだから。実態は「親分子分の縁結び」との言葉がぴったり。)

  そういう中での教員養成の指導は上部からの指示や指導には敏感だが子どもへの指導はハイカラ?な言葉とは逆に古くて画一的になる。(いじめ自殺問題や不登校についてもメディアに登場する上部の大臣始め教育委員会や学校長の言葉をよく見ると、原因や対応の糸口もみつけていないことが分るはずだ。学校現場での指導?も全く同じで、糸口すら見出している人の話を聞いたことが無い。障害児学級の授業を子どもの邪魔をしないで見られた管理職や指導主事にはついぞ最後まで出会わなかった。言い古された「年寄りっこの3文安」は教育の世界では文科省から学校現場まで普通であり貫徹している。落ち目の企業は別だが、新しい企業では考えられないだろう。
昨今の、スポーツ界の指導や管理の旧態からの合理的な変化

も教員養成では参考になるはず。決して画一的な技術を画一的には求めない。そんなことをやっていては間に合わないことが分ってきている。選手の活躍に感謝し涙を流す監督の姿は目にするが、教員を指導する人にそのすがたをみたことは無い。

教育界では格上が格下から学ぼうとする姿勢は殆ど見当たらない.「格」が最優先され「学び」はない。学びを学べない教師がどうして子どもに「学び」を学ばせることができるだろうか?

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