責任回避以前の問題

 今朝、ニュースで文科省大臣が、履修漏れの責任を学校長や都道府県教委にあるとして責任を明らかにし対処するとの談話を報道していた。10時ごろ同じくテレビニュースで、不履修は4年前、大学が文科省に報告していたが報告を受けた担当の課が、上部に上げなかったと、報道していた。今回も大学からの内部告発で分かったという。今日は教育基本法公聴会の(やらせ)まで明るみになった。
 
このブログでも書いたように、現場感覚で言えばこんな馬鹿げた話も「やっぱり!」ぐらいで特別驚かない。隠していたのはどこか?バレて困るのは誰か?何故文科省はやらせまでやり、教育委員会はなぜ黙ってそれに従うか?を考えたら今までの経過や今後の運びはだいたい見当がつく。責任がどこにあり責任回避をしてるのがどこかは明らかだ。
 一連のことで私は学校長や教育委員会が気の毒だと思っている。国や政府は児童生徒まで教育方針を徹底したいはずだから、命令系統上は、トップに見える文科省も教育委員会も学校長も単なる中間機関でしかない。子どもの実態や現場の状況を吸い上げ把握する機関ではない。ほとんど国は一方的で、中間機関がかなり無理してきたのを現場で見てきた。同じ論理で、今回の告発でも責任を担当の課に負わせようとしている。
 このように書くと私が政府や文科省の偉い人たちをただ批判している野党か労働組合のように思うかもしれない。確かにこんな馬鹿げたことをしないでほしいとは思うが、思ってる根っこはもう少し違う。
 政府や文科省も意図的だとは思わないし、それなりに一生懸命だろうと思う。政府の人たちは(殆どの人はわが子や孫ががいるだろうが)仕事上は形に縛られ、ただ財界からの質のいい労働力=学力という言葉を教育に翻訳しないで生の言葉を「教育」そのものとして方針化しているように見える。原因は簡単。教師も同じだが、結局、周囲や上部に合わせないと最後は自分の生活にふりかかってくる。
財界や安倍首相が言うように日本は人的資源が唯一とも言える国。良質(語弊はあるが)の人的資源なくして、日本の国際競争力も経済も立ち行かないことは誰の目にも明らかだし、その願いは親も子ども国民立場に関係なく誰も同じだろう。
 仮に財界が求める人材だって今の政府や文科省のやり方で実際に役に立つ人間が育つだろうか?(教育の権威者や役人より企業の経営者の求める人間像の方が教育的ということが意外に多いのです。財界の求める人材育成にも答えていない。

 その上、今日のように体力や学力の低下は言うに及ばず不登校だのニートだのは国家的な損失であり対策を考えるのは当たり前だが、その方法は要請されるままに経済や競争の原理を用いて成功するはずはない。((何故なら既に今の教育の諸問題の原因は直接的間接的に経済優先至上ともいえる社会作りであり、子どもからすると過度な比較競争による。教育の原理はどこかにふっとっとんでいる。
 教育はある意味で具体的な因果関係をもった科学的なもの。文科省や中間機関、現場の先生も一生懸命だとは思うが、上部や周囲に合わせることを優先し子どもそのものから目をそらし教育原理を無視していいはずはない。
 子どもに直接関われば、今の教育の問題がどうして出たか、どうすれば改善するか(ここまで来るとすぐ直すことはできないが)は分る。
 日本には多くの教育学者や、権威を持った実践家がいるのだからこうして書いている爺さんを「偉そうに」と思われるかも知れないがやっぱり言いたい。
 自分の子ども時代、や自分の子どものことを考えたらそう難しいことではない。子どもは教育学者や権力者が子どもを上手に育てられるかを考えたらいい。また今の日本を築いてる第一線の人たちを見たらいい。そんなに学校へ行き、勉強してきたか?社会に必要なマンパワーは、今皆が追い求めている学力なのか? 現実にマッチしないことばかりではないか。
 この間違いを国を挙げてやっている。問題の根は、国や文科省の責任回避どころではない。深刻になるが本気なら出口を見つけるのは簡単でもある。
 
 偉い人が格好つけないで自分自身や自分の子どもや孫のことを考えれば糸口は見つかるし、本当に責任をとるのは、その発想の転換しかないだろう。単に責任を学校長や教育委員会や文科省が取れば良いのではない。今までやってきたことの内容的な間違いを反省し改善するものでなければ単なるせきにんのたらい回しになる。しかしどうしてもそこには行き着かないようだ。
 テレビの出てきて教育を話す人の顔を良く見るといい。 
教育へ責任を感じ、子どもへの誠実さを持っているかどうか、は教師でも偉い人でも話す人の目の奥に子どもが映っているかどうかで分る。(これは隠せないけど、言葉だけでは見分けるのは難しい。)

 

 

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