教員の評価制度

内閣府は全国調査で教員の評価制度をしているのは13パーセントと発表した。学校教育で教員の評価が大切なことに全く異論は無い。言葉で言えばその通りである。ただ実際如何行われ、どういう結果をもたらすかは全く別だ。何事もそうだろうが、言葉で物事の良し悪しは決まらない。具体的なやり方で良し悪しの結果が決まる。麻薬が薬にもなり、薬が猛毒になり命も危ぶむのと似ている。地域の有力者や保護者、時に子どもに評価してもらい学校や指導の改善に役立てようというもの。私の考えを結論的に言うと、やり方次第ということになるが、今、東京日野市でやっているようなのは、プラス・マイナスでマイナスが多いだろうと思う。教員は直接子どもや保護者に直接関わるので、そこを評価の対象としているのは分らないではない。しかしそれは指導者として主体的なな判断が保証されている場合の話である。1時間1時間の指導計画が、学級の子どもを知らない管理職に様式から内容までチェックされ、一方的に指導され、書き直しを求められるような、なかで教員の評価をしても、(乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが)ロボットの評価をしているようなもので、ロボットを動かしてる人の責任や評価はでてこないから改善には繋がらない。これは論理の問題でなく、今行われている実際を見てのこと。分りやすい例を一つ挙げる。今学校では殆どの教師が背広にネクタイ、女性ならスーツ姿である。これは管理職からだけでなく教育委員会の指導が後ろにある。この指導はかなり昔からあったが、以前は各教員の判断が通じた。今はかなり難しい。保護者や最近は子どもも、その正装?を堂々と求めてくることがある。儀式や保護者会は別にして、小学校の日ごろの学習時の服装でふさわしいのはあの正装?だろうか?私は長い教師生活を振り返っても、あの正装は授業の仕事着だとはどうしても考えられない。これが大学や高校だと少し違うかもしれないが、少なくても、小学校ではふさわしくない。細かい理由は色々有るが、分りやすい話、幼稚園や保育園の保育師(今は男女がいる)正装していたら如何だろう?と考えると分りやすい。子どもによっては、泣き、帰ってしまう子もいるだろう。保育園の先生が制服や正装でなく、その先生なりに可愛くく、楽しくおしゃれをしている方がどんなにいいか。子どものおしゃれ感覚を育てたり、人はそれぞれ個性のあることを無言伝えることにもなる。保育氏や小学校の先生が職業上配慮しなければいけないのは、大人の目を意識して正装することではなく、子どもの気持ちを考え、学年や、クラスの子どもの好み、自分の個性やセンスを考えて個々の教師が服装にも配慮することではないか。現在この街も教師の評価を取り入れている。そのほか地域の人の学校評議会でも評価している。その評価の結果正装はより強く求められている。市内の18の小学校はどこも同じ。いつか詳しく書きたいが、授業の見方も、親や管理職の評価を得るための指導法はそれほど難しくは無い。難しいのはクラスの子どもにあっているかどうかにある。服装ではないが親や管理職にほめられる指導は工夫の必要は無い。それは親や管理職が納得できる授業を組めばいい。親や管理職が理解できる範囲はマニュアル程度であり、そのクラス独自の実態は子どもと教師しか知らない。正直に言うと現役時代、私はとことん子どもやクラスを優先したわけではない。ぎりぎりでは有るが、周りや自分の状況を見て手加減した。自分が体調などよく自信のあるときは、褒めてくれる人が半分もいればいいと思った。自信のないときは8割近くの支持者ができるよう加減した。教育はある意味で人と人のすりあわせ。みんなが「いいよ、いいよ」というような実践は私は眉に唾する。文科省や教育委員会、多くの管理職や保護者もその辺が難しいようだ。その辺は子どもが一番分るようだった。
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