「とりあえず 」の国  がいい 

 同郷の友人の口癖は「とりあえず~」と話始めに言う。酒を酌みあわすときも,「とりあえず~」と「乾杯!」代わりに言う。
 ところで、小泉首相が5年間の任期を終えて国民に挨拶したかどうか知らないが、「○○はうまく行ったが○○はうまくいかなかった、ご協力ありがとうございました。」と反省やや挨拶の弁は聞かなかった。思いだしても、過去、就任していたどの大臣からも聴いたことがないような気がする。
 人は勉強であろうが仕事であろうと遊びであろうと何かをやれば必ず失敗はつきものだ。その失敗を教訓に次の発展が期待される。全く失敗がないのは、何もしなかった事を意味する「無謬主義」は自己中心の個人や団体の独りよがりの意識の中にしか存在しない。政府の責任者の首相も行政を担当する各大臣も、それなりの立場でがんばったのだと思う。だとすれば国民に率直に反省の弁も含めてお礼と感謝を述べるのが礼儀だろうし、良いに決まってる。何故それが述べられないか、私は本当の意味で「施策を実施し試みる」の事実対し謙虚さがないからだろうと思う。
  理科の授業の仕方に「仮説実験授業」と言うのがある。推論し仮説を立て、実験し、その結果は仮説どおりになることもあるしそうならない場合もある。そうならなかったらなかった時は「何故か?」を考え新しい実験を試みる。これは科学的な思考と力を養うためにする学習である。
 政治・経済・教育などの行政の施策的なものから個人の日々の仕事や、子育てや料理にたる全ての分野の活動は、この仮説実験の発想から学ぶものがあるのではないかと思う。もし行政にこの感覚があったら、今日のような異常ともいえる社会にまではならなかっただろう。教育行政はいじめ一つ解決の糸口すら見出せないでいる。いじめがどんなもので如何行われるか、解決の方向を知っている人(該当する子ども達が目の前に沢山いるのだから)たちがいてもみつけられない。(失敗した原因や新しい施策を見つけるより面子の筋を通し責任回避を優先するから
当然ではある。)
  私の友達ではないがとりあえず、~でやってみようとやってみて、違っていたら「新しくやり直してみよう」と考え直したらたらいい。決め方も一応、制度的な方法で決めればいい。だめだったらその事実を見てまた制度的に決めなおし、やり直せばいい。けっしていい加減でいいといってるのではない。立場や権威・権力の面子にこだわり、いじめ一つとっても頑固で柔軟性の無い現行政は、リスクがぎりぎり限界に近いところまできいても、一向にその反省の兆しすら無く原因はあくもままならない。ここでは行政や大臣など偉い人を取り上げたが同じことは野党始め労働団体や宗教団体を始め下々の職場や地域や家庭でも同じようだ。(私自身も公私にわたり自分の自慢はしても、自分の不足や失敗を述べることが極端に少ない)友人や巷での会話でもマイナス面を口にしない傾向がある。これはむしろ率直に言うことにより個人でも団体でも、前向きにのびのび行動できるのではないだろうか。友達の「とりあえず」の言葉は軽いが奥深いと思う。

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