世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
必修漏れの責任
今日テレビで、政府や文科省が必修漏れが学校長が虚偽の教育課程を都道府県の教育委員会に届けていたことにある旨の談話を報道していた。『やっぱり』下への責任のなすりつけだと思った。
数日前このブログで(必修漏れの責任)書いたが、補足したい。もし一方的な虚偽の届出だったら、公印を押した学校長は公文書偽造で犯罪になる。現場感覚ではまずそうい事はありえない。
①もし一方的な偽造なら、学校予算関係の報告・決済偽造せざるをえない。 それは教育委員会内部の見落としは済まされない。
②高校は教科選科制だからの必修科目は専門教師を配置しているはず。 報道によると必修科目の教師のいない学校があったようだ。それを教育委員会が 把握し ていないはずはありえない。
③教育委員会は毎年、各学校を管理訪問と指導訪問をしているはず。カリキュラムの実施は当然管理上も指導上もチェックの対象になっているはず。訪問時は指導計画の提出を求められている。また教育委員会には教科担当の指導主事がいて、その指導主事は各学校の教育課程の把握はもちろん指導のあり方を指導することになっている。
④公的ではないが都道府県の教育委員会には数百人の職員がいて自分の子どもを通して履修の実態を知っている職員も少なからずいるはず。 何年も前から多くの学校でやられていたことで、「知らなかった」というのは教育現場の常識ではまずありえない。
指導要領は法的拘束力を持つと違反者を処分して来た文科省から教育委員会。 文科省は式での国旗・国家の実施状況は制度的に国が決めた指導要領【教育課程】の全国の実施状況は1ヶ月もかからず把握している。届出が虚偽だとすればそれを受理した方にも管理責任があるはずではないか。
ところが西日本鉄道の電車事故、耐震偽装建築、ライブドアもそうだったが当局 や行政の管理監督するところが責任を明らかにせず責任を取らなかった。【侘びの言葉すらない】履修問題は今までの問題以上に責任の所在をあいまいにしているようだ。
部下や現場に責任を負わせて(昔から言うトカゲの尻尾切り)始末をつけ責任体制の強化という名目でさらに上部の権限をさらに強めるのに使うだろう。裏返せば、上部に責任のあるのをよく知っているからだろう。
社会的には命令や指示した所が責任を負うのが常識で、今やってるのは日本古来の武士道にも反するし、潔くない。こんなことをしてるから醜悪な事件が次々と後を絶たない。
右でも左でも良いから、少しは筋を通して、「美しい日本」にしてほしいと願っている。
「空気」 と 「のり」
子ども達の話では、場の空気を読めずのりが悪いといじめの対象になるそうだ。「のり」や「空気を読む」とは言い方は少し違うが、同じような言い方は昔からあった。
「空気を読んで のる」のは年齢や性別に関係なくどこへ行っても見られる。むしろ(私も同じだが)年配者のほうが駄洒落など言って、場を白けさせることがよくある。気を使う私達にとっても、時代に遅れてはならないという健気な努力なのである。
世間の空気がよければそれで良いが、今のように過度に競争を強いられ、周りより自分自身と、目先の利益を求めざるをえない中で空気がおかしくなり、奇行・非行がことさら珍しくなっている大人社会の中で子どもが大人を見て「空気とのり」過剰適応的な(いじめ)の行動が出てくるのは当たり前で、原因の一つに違いない。連日報道される事件は社会病理的でもあり、常態化している。個人の病気であれば病院で治療するが、社会的な病気にはお医者さんがいない。本来は治療に当たるべき政治家は最も競争を煽られ、自分のことと目先の利益に執着し治療どころではないのだろう。結局国民全体が加熱され、のぼせているような現在、空気を読まずのりが悪いといわれても(カエルではないが)、なべから飛び出し、冷たい水に飛び込まない(自然に戻らない)限り、ひっくり返って浮き上がる。子どもから私のような老人まで状況は同じ。その場から浮き上がらないよう、いじめに回るか、(ひっくりカエルのように)浮き上がらないよう自然に戻るかの選択あるのみ。(やっぱ、老人は気を使う。)
自然と人為
国際化・国際社会・グローバリゼーションなど地球全体を視野に入れた言葉を目にすることが増えた。世界全体の諸関係が密接になってきて、それを意識せざるを得ないというう事だろう。
その国際経済や国際政治は超大国アメリカを中心に展開しているようだが、故湯川秀樹さんの世界連邦の構想とは程遠く、争いは絶えず、国際・国内・個人の意識とも混乱しているように見える。その混乱は国家×国家 企業×企業 集団×集団 人×人 など人為と人為の限られた範囲での対峙から生まれているように見えるが、実際はどうだろう?
実際は地球的な自然×人為の構図になっているのではないかと私は考えている。世界の経済も個人の幸福も人為として意識されるが実際はその人為をも含んだ厳然たる自然(自然の法則以上の自然)が支配しているのではないか。
古来どの民族も自然崇拝だった。勿論今は中身的には異なってはいるが、状況が人為に優先した自然尊重を具体的に求めているように思う。
それは経済や政治の世界的な行動から、個人の一つ一つの行動まで全ての人為が自然を手鏡にし閉塞疎外された意識を自然に開放することを【厳然たる自然】が求めているように思う。
世界の政治・経済から子どものいじめまでそれが求められていると思う。