世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
[右や左の旦那さま」
昨日は、参議院の特別委員会における教育基本法の論議を5~6時間見続けた。
与野党の議員が政府に質問し総理や文科大臣等政府側が答弁する。総じての感想は、政府・与野党とも(要するの国会議員は)この論議すること自体に無理があるように思った。
立法府の議員といえども、教育の基本理念に関わる重要な話し合いをするには、事前に予備知識として持っていなければならないことがある。それは現状把握。勿論立場で見解は異なるだろうが現状把握は最低の前提条件だろうと思う。
教育が現在行われており、それを変えよう(変えない)とするなら、今どうなっていてそれをどうするか(しないのか)、具体性を伴った話でなければ意味がない。殆どそれがない。
(国を愛する心と態度の違い)等のように言辞的な論争で具体的な教育や指導の観点からは、単なる空中戦。(具体性の無い理念は意味が無い。赤ジュータンでのサロン的なやり取りとでも言いたくなる)勿論、教育される子どもたち不在の論議。切り口は法律の言葉でもいいし、現実問題のいじめや未履修・やらせ等、それはどこからでもいい。しかし教育論議だから言葉の奥に(各自描く子どもは違っていても)実際の子どもを描いていなければならないだろう。
当然話の流れは具体的な方向をたどる。抽象→具体 それが一向にそうならないでどこまでも抽象→抽象。抽象的な言葉で云々しても現実の裏ずけがないから、どうにでも解釈できるし、どうにでもなる。これでは話し合いそのものが意味がない。
次に感じたのは責任感である。今日の状況を憂うるのはどなたも共通しているようだが、今日の状況にした(子どもを今日の状況に追いやった)自らの責任を問う人が誰もいない。大人であれば誰しも逃れられないのではないか。特段これを口にしなくともせめて、問題を他人だけに押し付けたり、法律のせいにするのは無責任極まりない。
法は人が用いるものの一つでしかない。法律を変えても用いる人の意思が変わらなければ物事は変わらない。これは法律以前の当たり前の話。
ついでだが改正案で「愛国心」や「家庭の責任」など付け加えるようだが、法律以前の当然のことを法に書き込まなくてはならないのっぴきならない状態になったのはなぜか?書き込んでどうするのか?それが議論されるべきだろう。安易に法にするものではない。人や社会は法律以前の法(常識・自然法)が前提で成り立つのではないか。
もう一つ責任のことで問うなら、今までそして現在、教育に最終責任を持っているのは誰かが政府や与野党の議員の誰からも指摘されないし、名乗り出る者もいない。具体的な問題が出ると責任の所在をあちこちに振り、5~6時間の議論の中ではとうとう曖昧なまま。そこは政府や立法の責任者が集まっているのに、まさに他人事だ。
(最終責任者は法律に書かれていようがなかろうが、社会的には形式上で決まるが、当人にその意思が有るか無いかで最終的には決まる。形式的には行政の責任者。はっきりしないときは上がとる。これは社会的常識ではないか)
こんな人たちがいじめを見て放っておく周りの子どもも問題云々と、言っている。自分抜きの話は全く教育論議する以前の問題。
こんな事を感じながら、でも5~6時間見続けた。自分もこのマヒした世界に生きているので他人事ではないのだろう。
この国に気の利いた王様がいたら、下々のこの様を如何言うだろう?私は思った。この国の人々が一人ひとり王様になった気分でものを見、言葉にしたらどうだろう?王様になったつもりが難しかったら、裸の王様に出てくる【王様は裸だ!】と叫ぶ子どもになった気分で物を見て言ったら、この世の中も、もう少しリアリティが出てくるのに。
右や左の旦那さまは難しい言葉を次々使われるが、姿は別にして知的には小学1~2年生かな?3~4年生だともう少し違う。
右や左の旦那さま!どうかⅠ票の見返りくださいな!」