鎌倉中期に書かれた『十訓抄(じっきんしょう)』の内容は、
今日 読んでも通用する。人の世は変わらぬものでござる。
1.人に恵を施すべき事
2.傲慢を離るべき事
3.人倫を侮らざる事
4.人の上を誡むべき事
5.朋友を選ぶべき事
6.忠直を存ずべき事
7.思慮を専らにすべき事
8.諸事を堪忍すべき事
9.懇望を停むべき事
10.才芸を庶幾すべき事
第九条の「懇望を停むべき事」は こんな内容です。
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ある人はこう言っている。
心安く頼みにしている人であれ、 互いに親しき人であれ、
怨んだり 妬んだりする心を先立ててはいけない。
たとえものの道理に行き違いがあったとしても、また約束に
反することがあったとしても、 しかるべき理由があるのだろうと、
気長に我慢していれば、腹を立てて怒るよりも、 かえって
立派に思われるし、気の毒にも思われるものである。
しかし、我慢して過ごすことは難しく、よく考えもせず
激しい勢いで振舞えば、 逆に周囲をしらけさせ、後々
些細なことで大変後悔させられるようなこともあるのである。
老子は、こう述べている。
「命(めい)を知れる者は天を怨みず、己を知る者は人を怨みず」
自己をわきまえ知っている者は、人を怨まず」
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そうそう、本当に、この言葉の通りでござる。
人の悪口を言ったり、人を恨んだりしていると、ツキは
まわってこない。ほんとにその通り。
ツキを呼ぶには、運気の強い人、金持ちでも人格すばらしい
人と交わること。
会員制の高級フィットネスクラブ。Sさんに連れていってもらった。
さすが世界が違う。
受付嬢もインストラクターも常にニコニコ、ニコニコ笑顔。
メンバーの方に失礼のないように、細心の目配り気配り。
タオル一本落としても、サッと替わりを持ってくる。
会員になるには、まず200万円。今入会したくとも30人待ち。
そして一回利用するごとに3,000円。ビジターの私は1万円。
フィットネスで汗を流したら、サウナにお風呂、プールもある。
泳ぎ疲れたら、リラクゼーションルームで音楽を聴きながらひと
眠り。一日いてもいい。時間制限なし。メンバーの方々も皆さん
品良く、ニコニコ、怒るような顔の人はいない。こんな人たちも
いるのかとホットする気持ちになる。若い人も多いのに驚いた。
平日なのに、ここは別世界。極楽じゃぁ。
でも一日いたら飽きた、なんて贅沢?。やっぱり娑婆が面白い。
貧乏性だが、こういう世界に連れて行ってもらえる立場にいられる
ことが幸せである。金持ちの世界と貧乏の両極を行ったり来たり。
一休の「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ」ウロウロを体験
できる環境に身を置くことが、虚無僧の生き方なのだ。
「脳天気なプチナショ」さんのブログから転載させていただきました。
「絶対に、付き合ってはいけない性格・気質を持った人間20項目」
(1)何かあれば、すぐにカネをねだる人間
(2)強い者に弱く、弱い者に強く当たる人間
(3)嘘でも何でも言って 真実をねじ曲げる人間
(4)自分を棚に上げ、他人を執拗に責める人間
(5)自分よりも状況が悪い人を見くだす人間
(6)自分の快楽のために他人を犠牲にする人間
(7)負けそうになると急に友情を強調する人間
(8)人のものを何でも自分が考えたと主張する人間
(9)悪いことは何でも他人のせいにする人間
(10)裏で他人の悪口・中傷を言っている人間
(11)法律や決まり事などまったく守らない人間
(12)自分が一番になった部分だけ宣伝する人間
(13)大声で叫び、自分の都合だけを押し付ける人間
(14)相手が弱ったところで 叩きつける人間
(15)徒党を組んで 弱者をいじめる人間
(16)勝手に他人の物を使う、盗む人間
(17)身近な人に感謝を見せることもない人間
(18)外見ばかりを気にして 外見だけを飾る人間
(19)すぐに怒り、いつまでも怒りが消えない人間
(20)本質とはズレたところで相手を大批判する人間
うーん、心当たりある。私のことだ! 反省自戒。
ドラマ「ドアー・ツー・ドアー」は、心を閉ざしている
人に、その扉を開けさせる話だった。障害があって
言葉も不明瞭な青年が、浄水器の訪問販売など、
絶対できっこない。誰もがそう思う。しかし、彼は
トップセールスになった。
尺八をやっていても思う。3尺以上の超長管は「絶対
無理」と、はなからあきらめていた。児玉竹坐氏から、
「やっているうちに指も伸びてきて届くようになりますよ」
と言われても「まさか」であった。ところが、一年経って
3尺2寸管が鳴るようになってきた。
鼻から吸って同時に口から吐く「循環呼吸」も、ようやく
メドがたってきた。
詩吟で最高音がF(ファ)までしか出なかったが、2年間の
ボイストレーニングで、A(ラ)まで出るようになった。
「絶対ダメ」と思っていたのに、「絶対」はないと知る。
その心のしばりを取れば、限界は超えられるのだ。
尺八初心者も、「尺八は難しい」と自分に納得させて、
「無理、絶対無理、できない」と自ら心を閉ざしている。
その心の壁を取っ払えば、不可能も可能になるのだ。
私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp
日本の仏教界には、さまざまな対立がある。
まず奈良仏教と平安仏教の対立。その平安仏教も、
最澄の比叡山天台宗と、弘法大師空海の高野山
真言宗の対立。
そして平安末期、法然によって浄土宗が、さらに
親鸞によって浄土真宗が開かれ、「南無阿弥陀仏」
と唱えるだけで、悪人も救われるという他力本願の
念仏宗が起こる。
その一方で、自力本願を説く禅宗が武家の間で広
まるが、禅宗も、曹洞宗と臨在宗の二つに。
さらに平行して、日蓮による日蓮宗が起こり、禅宗や
念仏宗を激しく誹謗排斥する。
五木寛之の『親鸞』は、平安末期の比叡山の堕落
ぶりと、そこから 「仏教とは何か」 を真剣に問い求
める親鸞の姿を描く。
水上勉の『虚竹の笛』も然り。室町期の五山に代表
される禅門の腐敗堕落から脱した異形の僧たちを
描く。それが虚竹と一休、そして一路だ。
水上勉の『虚竹の笛』は、「竹の中にこそ真の仏教
がある」と代弁してくれているようで心強い。すべて
の仏教を超越したものが「虚無僧」なのだ。そこには、
仏も釈迦も経典も無い。あるのは人々の心の中に
宿る仏性を呼び覚ます竹の響きのみ。
『蛍の光』は『北国の春』と同様、尺八ではメリ音無しで
ロツレチハで吹ける。尺八のツ(F=ファ)を基音とする「へ長調」
だから、ツ(=ド)、レ(=レ)、チ(=ミ)、ハ(=ソ)、ロ(=ラ)となり、
ファとシが無い「ヨナ抜き音階」。これは日本民謡の「追分節」
の音階と同じ。歌詞のイメージから゜陰音階と思われているが
「長調」の曲なのだ。
明治政府が西洋音楽を取り入れるため、西欧の音楽譜を
取り寄せた中で、スコットランド民謡が日本の「ヨナ抜き
音階」と同じことに注目したようだ。
「ヨナ抜き音階」ということで、『蛍の光』は日本人には
比較的すんなり受け入れられた。
原曲のタイトルは「Old long since」。つまり「遠い昔の日々」。
遠い昔の日々
古き友は忘れられて
二度と心に戻らないものだろうか?
古き友は忘れられて
遠い昔の出来事になってしまうだけなのか?
遠い昔の日々よ、ああ友
遠い昔の日々よ
今からでも友情の杯をあげよう
遠い昔の日々の為に
歌詞はこの後、「おさな友達が久しぶりに再会して、カンパーイ!
飲めや飲めや、さぁ どんどん飲もう!」という景気いい詩に
なっている。
ところが 日本では 稲垣千頴の作詞により、「お別れ」のテーマ曲に
なってしまった。
一 螢の光 窓の雪
書(ふみ)読む月日 かさねつつ
いつしか年も すぎのとを
あけてぞけさは わかれゆく
二 とまるもゆくも かぎりとて
かたみに思う ちよろづの
こころのはしを ひとことに
さきくとばかり うたふなり
普段は一番しか歌われないが、三番四番もあった。
三 筑紫のきわみ 道の奥
海山(うみやま)遠く 隔つとも
そのまごころは 隔てなく
一つに尽くせ 国のため
四 千島(ちしま)の奥も 沖縄も
やしまのうちの まもりなり
いたらん国に いさおしく
つとめよ わがせ つつがなく
三番、四番は「忠君愛国」の国家主義高揚の歌詞となって
いるため、現在では ほとんど歌われることはない。
ところで、デパートやスーパーの閉店間際に流れるのは、
古関裕而 変曲の『別れの曲』。またこのメロディが、かつて
韓国の国歌としても使われていたとは知らなんだ。
映画の話題、『アラビアのロレンス』。
1963年アカデミー賞を総なめした映画史上に残る名作。
今デジタル処理して『完全版』として再上映されている。
私が見たのは中学3年の時だ。感動をもって鮮明に記憶
している。
登場人物は全員男性。女性が一人も登場しない映画なんて
絶対ヒットしないと云われたそうな。男のドラマだが、
主演のピーター・オトールが色白の優男で妙になまめか
しい色気があって、それが際立たせている。
ストーリーは、オスマントルコに支配されていたアラブの
独立に手を貸す話だが、ロレンスは最後は失意のままに
バイクの交通事故で亡くなる。
苦心の末、ようようダマスカスの町をトルコから奪還するの
だが、砂漠の遊牧民ヴェトウイン達には、家も水道もガスも
貨幣さえ無意味なものだった。「なんだ“金”は無いのか。
騙された」と怒り心頭、砂漠に帰っていく仲間たちに呆然と
するロレンス。
この映画も、正しいと信じてやってきたことが、彼らの
ためにはならず、本国イギリスからも評価されない失望の
結果に終わる。中学でこの映画を見た時、すでに私は
自分の将来をロレンスに重ね合わせて見ていた。
「普通の女の子に戻りたい」は、人気絶頂で解散した
キャンデイーズの伊藤蘭の名文句でした。
落合恵子が「普通の人々と普通の暮らし」という題で
書いてます。
東日本大震災、そして福島の原発事故以来、昨日の次に
明日がとどこおりなく来ることのありがたさを痛感しての
タイトルとか。
中日新聞には、生い立ちが書かれていました。
私は「私生子」として生まれました。私はただの子どもとして
生まれてきたのに、社会が「私生子」「非嫡出子」といった
レッテルをはり、戸籍に登録され、明るくしていると
「どうしてそんなに明るくしているの?」と聞かれたりする。
そういうところで、フツーという基準を決めつける社会の
息苦しさを、小さいときから感じていた。
そして、「しーちゃん」と呼んでいた叔母が結核だったために、
近所から避けられていたこと。いなり寿司を作って近所の家々に
届けたら、食べずにすぐ捨てられた。母も、フツーでない状況の
なかで疲れきって、かなり強度の神経症をかかえていた。
等など、フツーでない家庭で育った彼女。今「反原発」の先頭に
立って講演して廻ってます。
その彼女への批難、誹謗中傷もまた、すごいものです。
それにもめげず戦う彼女。
何が「フツー」なのか、今の世の中 判らなくなってます。
かく言う私、「虚無僧」は、どうみても「普通の人」ではないですな。
5+5=10ですが、+を×にすると?
5×5=25。
1+9=10 6+4=10
2+8=10 7+3=10
3+7=10 8+2=10
4+6=10 9+1=10
5+5=10
みんな足すと10です。
でも+を×にすると、1×9=9 ですが、
5×5=25になるのです。
小さな製造業の会社。社長も奥さんもパートさんも
みな黙々と働いてはいるんですが、なんか活気がない。
注文はざんどん減ってきて、じり貧。
社長さんから「どうしたらよいでしょう」と相談を
受けました。
そう、貼紙をして、朝出勤してきたら、元気よく
朝のご挨拶。そして拍手。顔を合わせたら拍手。
これだけで社内にも活気が出てきた。みんな明るく
声掛け合って生き生き働くようになった。仕事も来る
ようになった。足し算が掛け算になったんです、と。
なるほど、いい話。
筝と尺八の合奏も、力量が1と10では、足しても11。
掛けても10。それより5×5と力が均衡している方が
より効果を発揮するということか。
「教えてgoo」に『“情けは人のためならず”の本来の
意味を教えて』という質問があり、何人かの人から回答
が寄せられていた。その中のひとつ。
「“巡りめぐって”というところが大切で、恩をかけて
やった人から何かを返してもらうということではありま
せん」と
なるほど「恩は報いを求めず、徳は名を求めず」の心だ。
さらに
「貧しい人、困っている人を助ける、寺にお布施をする。
そうした善根を積むことによって、みずから喜びとし、
温かい幸せの心を得る。そして幸せが幸せを呼ぶと
信じられてきた」という。
「信じられて来た」と過去形であることがなぜか淋しい。
ますます「情け無用」の世に突入か。虚無僧が門付けに
回ってきて、布施をしたくないときの言葉は「ご無用」。
それを知る人も今はいなくなった。手を横に振って追い
払うのみ。言葉も消えたか。