現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

⑪ 8/15 南阿蘇村

2009-08-19 14:26:46 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
深夜の岡城は真っ暗で不気味。城に通ずる道は狭く急坂。
途中で行き止まり。県道に戻って、竹田から阿蘇へと急ぐ。

カーナビが無ければ行かれなかった。途中で仮眠しながら、
早朝、阿蘇の外輪山を越え、カルデラ内にはいる。道は
右へ左へとナビが誘導してくれる。時折りものすごい雨。

でも、南阿蘇村に着いたときは晴れ上がっていた。
カーナビは「目的地周辺です、音声案内を終了します」で
プッツン。何本目かの交差点で、なにげなく左に曲がったら、
そこが「佐川官兵衛記念館」だった。

まだ朝7時前である。開いていない。そこで、また車を走らす。
じっとひところに留まっていられない性格なのだ。走って走って
数kmも走る。カーナビは「右だ左だ」とうるさい。「迂回して
戻れ」と指示しているのだ。音声の止め方がわからない。その
声に逆らってどんどん勝手に車を走らせた。すると、である。
「西南の役公園」の看板を見つけた。そこが、佐川官兵衛の
戦死の地だった。

まさに呼ばれたように、むやみやたらと車を走らせて、すんなり
目的地にまで導かれてきた。もう、神仏のお導きとしか言いようが
ない。

佐川官兵衛は、刀を振りかざして薩摩の敵将に一騎打ちを臨んだ。
そして敵将と斬り結ぶさなか、兵卒の銃弾に倒れた。
佐川官兵衛の碑の前で、尺八を献奏する。

⑫ 8/15 鬼官兵衛記念館

2009-08-19 13:35:24 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
9時、そろそろよいかと、「佐川官兵衛記念館」にもどる。
地元の名士、興梠(こおろぎ)氏が私財を投じて、佐川官兵衛の
顕彰のために、ありとあらゆる関係資料を収集して展示して
いるのだ。

次々と車がはいってくる。こんなに観光客が訪れるのかと
思ったら、後でわかった。今日は興梠(こおろぎ)さん宅で
お盆の法事が予定されており、親戚一同が集まってこられて
いたのだ。
その忙しい中、興梠(こおろぎ)氏が出てこられ、熱心に早口で
説明してくださった。30分くらいと思ったが、法事が始まる
11時まで2時間、しゃべり続けている。「時間がなくて申し訳け
ない」と。法事の前に、申し訳ないのは私の方。

会津人でない人が、こんなにも強く、熱く、会津のことに思いいれを
持っていてくださることに、また涙があふれた。
興梠(こおろぎ)氏の元には、こうして私のように会津関係者が
次々と訪れている。会津若松市長も、歴史家も、「鬼官兵衛烈風録」を
書いた作家中村彰彦氏も、皆、興梠氏のもとを訪れているのだ。

西南戦争前夜、明治維新の急な改革に不満を持つ士族の反乱や農民の
一揆も起こった。地元阿蘇村としても、農民が西郷軍に呼応して一揆を
起こしている。農民の立場から見れれば、官軍は農民の敵だったろうに、
それでも佐川官兵衛を慕ってくれている。佐川官兵衛をこれほど有名に
したのは、興梠氏なのだ。その熱意には頭がさがる。

⑬8/15 耶馬溪から中津

2009-08-19 11:45:48 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
阿蘇を西回りで半周し、玖珠を通って耶馬溪に抜けた。
心配した帰省返りの渋滞は無かった。

奥耶馬溪は実に見事な景観だ。山国川の両岸にはゴリラ岩とか、
屏風岩とかさまざまな奇岩が林立する。中国の南画のようだ。

途中、みやげ物店が10軒ほど立ち並び、広い無料駐車場があった
ので車を止める。すばらしい景観に魅せられて、虚無僧姿で
尺八を吹いて廻った。すると、各店でご喜捨をいただいた。
観光客もまばらで、売り上げも少ないだろうに、軒並みである。
「千客万来、商売繁盛、無病息災」を祈らずにはいられない。


羅漢寺にも行ってみた。急峻な巌谷の上にお堂が在る。よくぞ
こんな崖の上に立派なお堂が建てられたものだ。人間の力に
感心する。

夕刻6時に中津に到着。レンタカーを返し、不要な荷物を宅急便で
家に送り届ける。

そしていよいよ、本格的虚無僧の旅。
着物に帯、天蓋と偈箱に尺八一本あればいい。袈裟も替尺八も
下着も持たない。できるだけ軽装になって、中津市内を廻る。
福沢諭吉先生の生家記念館にも行ってみたが、閉館の時間。
ここは慶応中等部3年の修学旅行で来ている。

福沢諭吉を生んだ土地というプライドが高い町だ。
むべなるかな。『独立自尊』自分の生活費は自分で稼げ。人に
頼るなの福沢精神である。物乞いなど最も賤しむべき所業か。
それでも一軒の家で、お布施をいただいた。

⑭ 豊津高校と郡長正

2009-08-19 10:43:34 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
豊津高校の前身は、小笠原藩の藩校「育徳館」。ここに明治3年、
旧会津藩士の子弟7人が留学していた。最年少が、会津藩家老
萱野(かやの)長修の一子、郡(こおり)長正。

父萱野長修は会津戦争の責任を負って、明治2年5月18日、切腹
死罪となった。太平洋戦争のA級戦犯処刑と同じである。萱野家は
お家断絶となり、家族は姓を「郡(こおり)」と改めた。そして郡長正は、
会津の復興を託して、故郷はるか遠い、豊津の小笠原家に留学させられ
たのである。

小笠原藩は、萱野家はじめ会津藩の主だった者 300名を囚人として
東京までの護送に当たった藩である。その中に当家の「牧原寅三郎」も、
白虎隊の長として含まれていた。

さて、将来に希望ある少年たちだったが、翌明治4年5月事件が
起きた。寮内で郡長正が自決したのである。「母の手紙に食事の
粗末さを愚痴ったことから、小笠原の子弟に『会津の死に損ない』と
からかわれたため」と言われている。

明治、大正、昭和と、郡長正の話は「武士道の鏡」と喧伝され、会津と
豊津は友好関係を築いてきた。豊津高校は藩校以来の「育徳館」の
名前も併記して用いており、校庭には「郡長正記念庭」も設けられ、
会津から植樹や鶴ヶ城の石を贈呈したりしてきた。

私としても、一度は訪れたい土地であったから、8/15夜、中津を出、
小倉の手前の行橋で降りた。ここで「平成筑豊線」に乗り換えるの
だが、最終はもう出た後。朝まで待てず、夜を徹して歩いて豊津を
目指した。地図も無く、勘だけが頼り。筑豊線沿いに行けばよいかと
思ったが平行する道が無い。山道に差し掛かれば、真っ暗で足元も
見えない。あちこち遠回りして、ようやく「豊津」駅を過ぎ、次の
「新豊津」にたどりついた。田んぼの中にプラットホームが片側だけ、
屋根も無い、改札口も無い無人駅だ。

そこで「郡長正の墓 1.2km⇒」という小さな標識を見つけた。
郡長正の墓は会津にもあるが、当然この地に埋葬されたはずとは
思っていたが、豊津の「郡長正の墓」については文献で見た記憶が
無かった。「また呼ばれたのだ!」と興奮である。そこは、豊津高校
から反対、また今来た道を1.2km戻ることになる。逸る足で戻り、
山を上って墓地に着いた。この中らしいが、とにかく真っ暗で何も
見えない。夜が明けるまで待つことに。

ようやく夜があけて、墓地の中央に「郡長正の墓」を見つけた。
誰が手向けてくれたのか、花とお供えの果物があった。地元の人に
よって守られているのかと感謝の涙。涙枯れるまで、しばらく
墓石をさすっていた。

ようやく朝7時。街道を歩いて豊津高校を目指す。途中、すれ違った車が
急停車し、窓が開いて、男性が「虚無僧さん?」と驚きの声を挙げる。
車を空き地に止めて降りてきてくれた。「珍しいね。映画でしか見たこと
ないよ」と。そこで一曲。すると財布から 1,000円札を取り出して喜捨
していただいた。「きっと、郡長正も喜んでくれての、お力」と、ありがたく
頂戴する。

するとまもなく、校舎らしき建物が見え、駆け寄れば「育徳館・豊津高校・
豊津中学」の看板。今日は日曜なので入れないだろうとあきらめていたが
門が開いている。部活動の学生が早々と登校していたのだ。
「郡長正の記念庭を拝見させていただきたい」と申し出ると、虚無僧の私を
見て驚いたか、皆黙っている。「郡長正って知りませんか?」に「知らない」
との返事。「職員室へ行かせてもらいます」と告げて、校庭に入らせて
もらった。職員室は閉まっていてどなたもおられなかった。朝8時だ。

校舎は建て替えられたらしく新しい。校庭の片隅にちっょとした木立が
あった。「郡長正の記念庭」はきっとあそこだろう。近寄ってみた。
会津から記念植樹の碑や石碑があるが、「郡長正」の文字はどこにも
無かった。見つけられなかったのか。

「さもありなん」と予想はしていた。今の世の中「いじめられて自殺した」
のだから、豊津高校としては、賛美するわけにはいかない。自決を
「武士道の誉」とするのは、もう時代錯誤だ。今でも郡長正を褒め称えて
くれているとの思い込みは、会津人だけの幻影だったか。

豊津高校だけ見て帰っていたら、失望のままだったが。郡長正の墓を偶然
発見できたことが、何より今回の旅の収穫だった。

「豊津駅」に戻ると、ホームに年配の男性が一人。「次の電車が来るまで
まだ30分ある」と教えてくれた。30分以上も前から来ているのだ。
「郡長正の関係で豊津高校を訪ねて来た」と話すと、その方は、長正の墓の
ことなどいろいろ教えてくれた。そして「今はもう、学生にも郡長正の話は
教えていないね。35歳になる自分の娘も、豊津高校を出て教員しているが、
知らないっていうもんね」と淋しげに語ってくれた。




⑮ 郡長正の死の真実

2009-08-19 09:45:19 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
「郡長正」の話は、私も子供の頃から聞かされており、「会津人は決して
食べ物の旨いまずいを口にしてはならない」と教えられてきた。
その母は「毎日ごちそうを作っても、お父さんは一度も『おいしい』と
言ってくれなかった」と愚痴るが、今思えば、父も食べ物の良否を
口にすることを忌んでいたのだ。

私が、一日一食。いただいた物だけを、好き嫌い言わず有難く、残さず
食べることにこだわるのは、郡長正の話が子供の頃から身に染み付いて
いるからだ。

また、最近『国家の品格』でも取り上げられたことから、しばしば目に
するが、会津藩の子弟の教育に『什の教え』というのがある。会津藩の
子弟は4歳から集団生活の中で7つの誓いを毎朝唱和する。その中の
一つが「戸外で食べ物を口にしてはなりませぬ」というもの。私が虚無僧で
旅をしていて、ほとんど食べない理由もそこにある。外での立ち食いは
できないのだ。会津人の頑固さか。

『会津少年郡長正・自刃の真相』(宇都宮泰長 2003年 鵬和出版)が
ネットで検索された。どこも在庫無しで、手にはいらぬが、「食べ物の
ことを母への手紙に書いて、いじめに遭って自刃した」というのはどうも、
作家の創作らしい。真相は会津に伝えられていない。また、父萱野長修
切腹と同じ5月18日に腹を切ったというのも小説。事実は5月1日だそうな。
またしても「作家史観」に振り回されていたか。

ところで、思い出したことがある。萱野家は、萱野長修の弟、三淵隆衡の
子で初代最高裁長官になった三淵忠彦の次男、章二郎が跡を継ぎ、萱野家を
再興した。私が千代田生命に入社した時、萱野章二郎は副社長、やがて
千代田生命の社長になった。これも不思議な“縁”だ。


⑯ 8/17 下関 赤間神宮

2009-08-19 08:52:32 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
小倉から普通で列車で下関に渡る。
琵琶の糸井藍水さんと『耳なし芳一』を演じさせていただ
いていることもあって、赤間神宮と平家一門の墓は、今回
の旅の目標の一つだった。

下関は新幹線が通らないからか、町の凋落が激しい。
日曜日でもあって、商店はすべてシャッターが下りていた。
赤間神宮まで、駅前の地図では近そうにみえたので、徒歩で
向かった。行けども行けども到達しない。1時間以上は歩いた
だろうか。ただ歩くだけで、人に出会えないのは、虚無僧に
とって徒労だ。

漸く立派な神社の大きな階段が見えてきたが、どうも違う。
すると、向こうから来て、神社の石段の下で丁寧に頭を下げ、
再びこちらに向かって歩いてくる若い女性に出会った。今時の
若い女性にしては、なんと珍しい。神社の前を通り過ぎるにも、
きちんと拝礼するとは。思わず声をかけた。
「すみません、赤間神宮はまだ先ですか?」と。すると
「はい、この先です」
「あとどのくらいですか」
「10分くらいでしょう。私も今お参りしてきたところですから」
「ありがとうございました」
「いえどういたしまして」
私の目をじっと見て話す。その立ち居振る舞い。話しぶり、
顔かたちまで、“あのひと”にそっくりだった。私の学生の時
恋焦がれていた女性だ。一方的片思いで、みごとに振られた。
しばし彼女に見とれていた。耳に補聴器がついていた。
さまざまな過去が蘇る今回の旅だった。

赤間神宮は以前に一度訪れている。その時は意外に小さいと思った。
あの時の記憶と全然違う。記憶よりは大きく見えた。記憶とは
あてにならないものだ。芳一像の顔も、なかなかにステキだった。
琵琶の名手ゆえに平家の怨霊に取り憑かれた芳一。私も先祖の
慰霊に尺八を吹いているが、はたしてご先祖様は私の尺八に
とりついてはくれぬのか。いや、とりついてくれていると確信している。

⑰8/17 倉敷

2009-08-19 07:24:45 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
学生時代、「白壁の町、倉敷」は、人気の旅行地だった。
今もかな?。大抵の市は 旅している私だが、倉敷は まだ
行ったことが無かった。

古い町並みが、観光用に?実にきれいに整備されている。
虚無僧に似合いの町並みだ。だが期待すると、裏切られる。

家々の玄関口に「募金、物売、物貰、絶対にお断り 倉敷警察」
のプレートが張られている。開いていた戸も、私が近づくと
ピシャリと閉められる。虚無僧にとっては冷たい町だった。

「考古館はどこですか?」と訪ねる老婦人に、男性が「そこじゃ」。
「看板がないので判らなかった。あそこは閉まってた」。
「今日は休みだから、当たり前だろ。戸開けて入ったら“泥棒!”だ。
警察呼ぶぞ!」と、そんな荒々しい言動に唖然。ひとりの人の言動に、
町の人のすべてがそうと 印象づけられて 悲しい。

そんな思いも出しつつ、「不足心を消すのが修行」と、一軒一軒
廻れば、50軒に一軒くらいは、喜捨してくださる方もいる。

駅前のアーケード街も廻ってみた。観光客の集まる「美観地区」に
比べれば活気がない。お盆でシャッターを閉めている店も多い。

その最後の店で、若くきれいな女性が、店から出てきてくれた。
手の中から差しだされたのはゼリー菓子3個。女性は、偈箱を見て
入らないと思ったか、「あらっ(これでは)いけませんか?」と、
手を引き込めかけた。「いえいえ、ありがたいです」と、受け取って
無理に偈箱に押し込む。私はゼリーが好物なのだ。

すると「お水でもいかがですか」と、店内に招きいれてくれた。
砂漠の中で渇きが激しいほど、泉に出会った喜びは大きい。

しばし歓談の後、「この町の方は虚無僧に喜捨するという習慣は
ないんですかね」と、ぶしつけなことを言ってしまった。すると
「よく来るんですよ。托鉢の坊さんが。だからまた来たかという
気持ちなんでしょう」。

なるほど、「倉敷なら」というスケベ根性は、私も同じ。頻繁に
来るから、警察も撃退策として「物貰いお断り」のプレートを
家々に配っているのか。たぶんそうだろうと思っていた。

「でも尺八は初めてです。音色がステキだったので・・・。 それに
私、横笛(オウテキ)を習っているんです」と。なんと黒住教の神楽殿で
舞を勤めているとのこと。いかにも巫女さんの顔かたちだ。気品が
漂う。彼女の舞い姿はさぞ美しかろうと想像できる。

帰宅してからネットで「黒住経」を検索してみた。金光経、天理教、
大本教とならぶ神道系の宗教団体。幕末に岡山の黒住宗忠によって
始められた。京都亀岡の宗忠神社は、孝明天皇の勅願所。禁門の変で
「長州の過激派を撃退せよ」という京都守護職松平容保への孝明帝の
詔勅は、この宗忠神社の託宣によってと知る。

黒住経の教えは

一、お日の出を拝もう
一、親を大切に、先祖を敬おう
一、明るいあたたかいことばを使おう
一、人に親切に、とりわけ弱い人に あたたかい手をさしのべよう
一、人のために祈ろう

そういうご縁で声をかけてくれたのだ。彼女に出会って、倉敷の印象が
一変した。

⑱8/17 備中高松

2009-08-19 06:25:39 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
岡山駅から吉備線に乗って「備中高松」へ。

毛利方小早川家の武将清水宗治の居城だった。
天正10年(1582)、中国平定をもくろむ 織田信長の命で、
秀吉が3万の兵で 取り囲んだ。しかし、城の周囲は沼地で、
人馬が近寄れない。2ヶ月に及ぶ 膠着状態を 打破すべく、
秀吉は下流に3kmにわたって堤を 築かせ、水攻めにした。

そうこうしているうちに、6月2日本能寺の変で信長が
明智光秀に討たれる。光秀から毛利方への密使が 秀吉軍に
捕らえられ、秀吉は 城主清水宗治の切腹を条件に 講和を
はかり、急ぎ中国大返しとなる。

そして12日には山崎で光秀を討った。この間わずか10日の
出来事。秀吉が天下人となる重要な歴史の舞台だが、いま
ひとつ場所が知られていない。竹中直人が秀吉を演じたTV
ドラマでは「それ!四国へ渡れ」と、完全に四国の高松と
勘違いされていた。シナリオライターも制作人の誰もが、
香川県の高松と思い込んでいたようだ。

行ってみて、堤防の規模、低地に在った城の様子などよく
わかった。城と云うと小高い丘や石垣を思い浮かべるが、
ここの城跡は田んぼの中の公園だった。

公園脇に一軒だけある小さな和菓子屋にはいり、お茶を
ご馳走になる。初め“ぬるい”お茶、次“温かい”お茶、
三杯目は“熱い”お茶。これは石田光成の故事そのものだ。
女主人の心遣いがうれしく、しばし歓談する。こういう
出会いを求めての旅なのだ。

最近周囲に沼を復元したら、地中深く眠っていた蓮の実から
茎が伸び、一面に蓮の花が咲くようになったという。縄文遺跡
から出土したという「大賀蓮」と同じ話だ。蓮の生命力に
驚かされる。それにくらべ人の世は儚い。

清水宗治の辞世。
『 浮世をば今こそ渡れ武士(モノノフ)の 名を高松の苔に残して 』

家臣のため、主家小早川家のため、命を差し出した清水宗治。
もっともっとその名を世間に知られてもよいと思う。

そして、清水宗治を追悼する碑には、『怨親平等』の文字。「敵も
味方も恨みっこなし」と織田、毛利双方の戦死者の御魂を祀って
いるという。寛い心に慰められる。