現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

世間の愚弄と嘲笑を浴びながら

2016-07-11 16:07:41 | 虚無僧日記

貯金は一銭もない。食べるものも底を尽いた。

この一週間゜、7日間の内雨天の2日を除いて 5日虚無僧に出た。

名古屋駅前は 華やかな若者たちで溢れている。その片隅に

異様な虚無僧。しかし誰も見向きもしない。気づかないのか

無視゜しているのか。

彼らの冷ややかな嘲笑と愚弄に堪えながら、ひたすら尺八を吹く。

騒音迷惑にならないように、細心の注意を払い、一音一音に心を

こめて吹く。 だが3時間吹いても反応はなし。

絶望とあきらめの窮地に立たされた時、一人の若者が、通りすがりに

さりげなく小銭を入れてくれた。そんな時、絶望の中に一筋の光明を

見た気がするのだ。

 

周囲にはチラシやティッシュを配る人、広告のプラカードを掲げて立つ人。

そのバイトの方が、よほど収入になるだろう。1日で6000円とか。

でも私にはできない。私には尺八しかない。私にとって尺八は

唯一の生きるための道具なのだ。そこまで追い詰められて、ようやく

普化の禅を悟れるのだと私は思う。

 


「普化の禅」とは

2016-07-11 09:17:16 | 虚無僧日記

中塚竹禅によって「普化と法燈国師と虚無僧は本来無関係」ということが

明らかにされたが、それは「普化禅」を否定するものではない。

ここが大事。中塚竹禅はいう。

「法燈国師や興国寺のおかげで、今日の尺八界が現出したのではない。

野に山に里に、あるいは他人の軒下に、樹下石上に、涙ぐましい苦難の成長を

遂げてきたのが、純真なる普化道者。喰うものもなく、着るものも無く、野に伏し、

山に寝、全国を旅し、ひたすら(尺八の)曲を求め、音を尋ねて、幾日も幾夜も

眠らない日を続けた先覚者たち。立身出世や栄耀栄華を捨てて、専心尺八に

自己を没し、社会の愚弄と嘲笑を浴びながら、尺八一本を守って来た。

それこそが まことの普化道なのだ」。

この竹禅の地の底からの叫びに私は落涙滂沱。竹禅にとって尺八は

余技ではなく生きる命そのものだった。

私もその片鱗を拝し、今、尺八を杖として生きているのだ。