『邦楽ジャーナル』に「虚無僧曼荼羅」と題して連載寄稿しています。
ネットでも虚無僧関係の書でも教科書でさえも「虚無僧は禅宗の一派
普化宗の僧。武士でしかなれなかった。尺八は虚無僧以外には吹けなかった。
公儀隠密で、幕府の手厚い保護を受けていた。明治になって江戸幕府と
関連が深かったので廃宗となった」と書かれています。
尺八家の多くがそう信じていて、そのように公言してはばからない。
とんでもない大嘘です。ホラ吹きならぬ、尺八家は大嘘つきです。
ではなぜ虚無僧は普化を始祖とするのか、普化禅とは何なのか、
それを究明するために、私自身 虚無僧として行乞をしています。
普化尺八愛好家の方がたは、私のように「喰うために托鉢する」行為を
「行乞」、乞食の所業と見下し、軽蔑しています。
喰うために布施を求めるのは「乞食」。「虚無僧の托鉢は行化。行化とは
普化禅の高揚、普及、人々を仏の道に導く行為でなければならない」と
おっしゃいます。
一日 裸で 街頭をうろつき、乱暴者で奇行を振りまいた普化のどこに
高尚高邁な禅僧の姿があるというのでしょうか。
一休は、普化を信奉し、名誉や肩書を捨て、風狂で奇特の行動で人々を
驚かせ、善悪の基準、世の常識、こだわりを捨てることを 自らの行動で
示しました。奇行によって、世の人の覚醒を促す。それが虚無僧であると
私は信じるのです。